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神様の国は愛される資格のない者が愛される国

テーマ: 神様の国は愛される資格のない者が愛される国

ルカによる福音書 6:27-38


1. 神様の国はどんな国だろうか。 神様の国は仇を愛する国だ。

頬を打つ者に、もう一方の頬をも向けることは 暴力を受ける状況だ。.

上着を奪い取る者には、下着を拒まないのは 強制的に奪われる状態だ.

それでも神様は愛せとおっしゃる。


神様は人間の姿でこの地に来られて人々に憎まれ呪いを受け侮辱を受けた。 服を奪われ命を奪われながらもこのようにおっしゃった。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 (ルカ23:34)


私たちもイエス様のように敵を愛することができるだろうか。

イエス様のように自分を殺そうと石を投げる人たちを許した一人がいた。


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使徒言行録7:55-60 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。 人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、 都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。 人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。 それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

ステファノが許せた理由は何だったのだろうか。 自分の力だったのだろうか。

聖書はこう話す。 ステファノが 聖霊に満たされた。

自分を殺そうと投げる者に向かって彼が許すことができた理由は、彼が聖霊に満たされたためだ。 聖霊の能力がステファノにあったからこそ可能だった。

聖霊の能力は神様の心で神様の愛で神様の目で隣人を眺め隣人を理解し隣人を愛させる能力である。


2. 神様の国は愛をあきらめない.(32 -35)

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。


自分を愛してくれる人を愛したところで、、聖霊の能力がなくてもいい。

自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、聖霊の能力がなくても良い。

返してもらうことを当てにして貸したところで聖霊の能力がなくてもいい。

これはクリスチャンでなくても誰でもできることだからだ。

クリスチャンの愛は相手が私たちが伝える愛と好意に反応しないほど感謝を知らずに悪いとしても善行することだ。

私たちが神様を知らずに暮らした時も神様が私たちの人生に共にして私たちを導き、私たちが私と共にする神様に気づくまで無礼に行わず忍耐して待っていたように、私たちも私たちの好意に反応がないからあきらめるのではなく、彼の心が開かれるまで忍耐して待ってくれるのだ。

神様が私たちに望んでいる姿だ。 愛は無礼に行なわない。


3. 神様の国の関係は自信を与える関係 (36-38)

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」


イエス様は批判を受けないためには批判するなとおっしゃる。

罪人だと受けないためには人を罪人だと決めるなとおっしゃる。

神様の国にとって人間関係は批判と罪人だと決める関係ではない。

むしろ許して忍耐して待ちながら自分を与える関係だ。

肯定的な評価であれ否定的な評価であれ、他人に対する私たちの評価と断定は常に先入観にとらわれやすい。 自己中心的に見て判断しやすい。

したがって福音は他人に対する断定的な評価と審判を禁じることだ。

人を評価して判断することは神様がなさることだからだ。

そして神様は慈しみ深い方で私たちを判断するより、すべてを抱いて愛してくださることにした。

神様は愛される資格がない者を愛せと言う。 これは私たちには愛以外に許されたことがないという意味であり、私たちがそのような愛を受けたという意味だ。

 
 
 

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