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神様が望まれる礼拝


アモス書 4:1-13

1-3節: 北イスラエルの富裕層の貪欲と圧迫

 北イスラエルの首都サマリアで、富裕な権力者たちはその力と財産を濫用し、貧しい者や力のない者たちを虐待し、抑圧していました。彼らは自分たちの欲望を満たすために、夫を「アドナイ」と呼んで操ったように、神様も彼らの欲求を満たすための道具としていました。彼らは、もっと多くのものを食べたり飲んだりするために、貧しい者たちの最後の食糧まで奪って満足しました。神様はこのような悪行を見て、彼らの傲慢さと悪行を裁かれると警告されました。彼らが信頼して頼っていた城壁も最終的には崩れ、彼らは神の裁きを免れないという警告です。



4-5節: 形式的な礼拝の批判

 ベテルとギルガルは北イスラエルで重要な礼拝の場所でしたが、そこで捧げられる礼拝は外見上は敬虔に見えたものの、実際には彼らの生活は腐敗と貪欲に満ちていました。彼らは毎朝いけにえを捧げ、三日に一度10分の1を捧げていましたが、その礼拝はただ自己満足のためのものであり、神様とは何の関係もありませんでした。神様は彼らの生活と切り離されたその礼拝を批判し、彼らが捧げたいけにえや10分の1も神のためではなく、自分たちの利益や名声のためであったことを指摘されました。真の礼拝は単なる形式を守ることではなく、日常生活で実践されるものであると強調されています。



6-11節: 神の災いと悔い改めの欠如

 神様はイスラエルの民にいくつかの災いを送り、悔い改めの機会を与えられました。飢饉、干ばつ、凶作、疫病、城の破壊など、5回にわたる災いを通じて、彼らの罪を悟らせ、神に立ち返ることを望まれました。しかし、イスラエルは最後まで悔い改めず、依然として不従順の道を歩み続けました。彼らの問題は方向性にありました。神様が立ち返るように命じられるのは、彼らが間違った道に進んでいたからであり、その道の終わりは滅びであることを悟れなかったのです。神様は災いを通して彼らに悔い改めの機会を与えられましたが、彼らは神の言葉に耳を傾けることがありませんでした。



結論: 神が望まれる真の礼拝

 神様が望まれる礼拝は、単にいけにえや献金を捧げる形式的なものではありません。神様は日常生活で愛と正義を実践し、貧しい者や弱い者を助け、共に分かち合う生き方を求められています。申命記12章17-19節では、神様が私たちに与えられた祝福を分かち合い、共に喜ぶ礼拝を捧げるよう命じられています。しかし、北イスラエルの礼拝は自己中心的であり、隣人と分かち合うことがなく、彼らは礼拝の中で自己義認を誇り、自分の罪を隠そうとしていました。神様が喜ばれる真の礼拝は、外見だけで敬虔なものではなく、真の愛と分かち合いがある礼拝であり、礼拝と生活が切り離されることなく一つになるべきであると強調されています。



礼拝の重要性:礼拝は神との関係を新たにする時間

 礼拝は、神様と私たちとの関係を深くし、新たにする重要な瞬間です。私たちは礼拝を通じて神の御前に立ち、心と思いを神様に集中させ、その御言葉と恵みを通して霊的に新たにされます。礼拝は単なる宗教的な行為ではなく、神との深い交わりを持つ時間です。それを通して私たちは神様の御心を理解し、人生の目的を再確認し、新しい力と方向性を得ることができます。



礼拝は私たちの信仰告白

 礼拝は、私たちが神様を崇拝し、その主権を認める重要な信仰告白の行為です。神に対する私たちの愛と畏敬の念を表す時間であり、私たちが信じる信仰の核心を再び心に刻む時間でもあります。礼拝は、私たちの人生が神様に属していることを宣言し、その導きを従う決断の時間です。



礼拝は神への献身の決断

 礼拝は、私たちの人生とすべてを神様に完全に委ねる決断を意味します。私たちが神様に礼拝を捧げる時、その主権を認め、自分自身を神に捧げる献身の決意をします。アモス書4章で強調されているように、真の礼拝は単なる形式的なものではなく、日常生活の中で神の御心を実践するための決断の延長線上にあります。



礼拝は私たちの生活と分かち合えない流れ

 礼拝と生活は決して分けることができません。レビ記でも示されているように、幕屋での礼拝と日常生活は一つにつながっていなければなりません。日常生活が礼拝に反映され、礼拝での決意が生活の中で実行されるべきです。礼拝は週に一度だけ捧げるものではなく、私たちの毎日の生活を通じて現れる継続的な献身であり、神に向かう生き方の表現です。



礼拝は共同体と共に分かち合う時間

 礼拝は、私一人のためだけではなく、共同体と共に神様を崇め、分かち合う時間です。申命記12章でも神様が仰せられたように、礼拝は自分のためだけではなく、隣人と共に分かち合い、互いを思いやる愛と分かち合いがなければなりません。真の礼拝は、私たちが受けた神の祝福を隣人と分かち合い、互いの喜びと悲しみを共にする共同体的な経験です。



結論

 礼拝は、神様との深い交わりを持ち、私たちの信仰を告白し、日常生活を通じてその御心を実践する重要な行為です。形式的な礼拝ではなく、真の献身と分かち合いが含まれた礼拝を通して、私たちは神に栄光を捧げ、その御心に従って生きるべきです。神が望まれる真の礼拝は、単に外面的なものではなく、私たちの生活の中で具体的に実践され、分かち合いと愛が伴うものです。

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