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神を求めることの意味 アモス 5:14-27

 神様はイスラエルが滅びないために「善を求め、悪を憎め」と命じました。これは正義と公義を実践する生活を意味します。神を求めるとは、善を追い求めることであり、それによってイスラエルが神と共にいることができます。



公義と正義の定義


 公義とは、他者の苦しみや悲しみを共に分かち合う心を指します。苦しんでいる人々のそばに立ち、その痛みを共感し、隣人を自分の体のように愛することを実践することです。

 正義とは、弱者が差別なく公平に扱われ、不当な扱いを受けないようにすることです。社会の中で孤児や未亡人のような弱者が平等に扱われるようにすることを指します。

 神様は私たちの日常生活においてこの正義と公義が流れることを望んでおられます。教会の中だけでなく、家庭や職場、社会のすべてで正義と公義が実践されることが重要です。



形式的な礼拝の批判(アモス 5:21-24)


 神様はイスラエルの民の形式的な礼拝を喜ばれません。どれほど祭りをささげても、神様はそれを受け入れません。礼拝が本当の意味を持つためには、礼拝者の生活が正義と公義に満ちていなければなりません。礼拝は単なる儀式ではなく、神との真の出会いを表すものであり、日常生活での正義と公義の実践が必要です。



主の日と神の裁き(アモス 5:16-20)


 イスラエルの民は主の日を救いの日と信じていましたが、その日は彼らにとって暗闇と裁きの日となります。彼らには逃げ道がなく、獅子から逃げたかと思えば熊に遭遇し、家で蛇に噛まれるような状況です。主の日は光ではなく、彼らの悔い改めの欠如に対する暗闇の裁きとなります。



結論:神に戻れ(アモス 5:25-27)


 イスラエルはかつて荒れ野で神を信頼し従いましたが、今では異邦の神を崇拝し、欲望に満ちた生活を送っています。彼らの礼拝は形式的であり、神との真の関係を築けていません。神様に戻り、正義を水のように、公義を尽きることのない大河のように流さなければなりません。

 「正義を洪水のように、公義を乾かない川のように流させよ」(アモス 5:24)という言葉は、正義と公義が私たちの生活の中で絶え間なく実行されることを強調しています。ここで「川」とはヘブライ語で「ナハル(נַחַל)」と呼ばれ、雨が降っても降らなくても流れ続ける川のことを意味します。どんな状況でも正義と公義を絶え間なく実行することを象徴しています。これが神様に捧げる真の礼拝です。



イスラエルの堕落と神の警告


 イスラエルは異邦の神々を崇拝し、欲望に従っています。そのため神様は、彼らに裁きが下ることを警告しています。彼らが頼りにしている異邦の神々は、結局彼らを救えず、彼らの重荷となってしまいます。

 真の礼拝とは、神を信じ、信頼し、従うことであり、正義と公義が流れる生活です。私たちは、ナハルのようにどんな状況でも絶え間なく流れる正義と公義を通して、神様が喜ばれる生活を生きるべきです。

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