神の言葉から離れると訪ねる堕落
- オークー
- 2024年9月8日
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アモス書 2:6-16
1. 諸国の神
神はイスラエルだけの神ではなく、すべての国々の神です。異邦の国々は神を信じていませんでしたが、その罪のために裁きを受けました。彼らが裁かれた理由は、神を知らなかったからではなく、人間の尊厳を踏みにじったからです。神は正義と公正が無視される場所で、決して黙って見過ごすことはありません。人間の尊厳を守ることは、神がすべての人類に求める基準です。神の創造物である人間が互いを虐げ、その尊厳を無視することは、神の前で許されない罪です。
2. 契約の民
ユダとイスラエルは異邦の国々とは異なり、神と契約を結んだ民です。この契約は、神との特別な関係を意味し、神は彼らをご自身の民として選び、守ることを約束されました。しかし、イスラエルはその応答として神の言葉と律法に従わなければなりませんでした。もしイスラエルが神の言葉に従ったならば、彼らは神の保護のもとで安全に過ごすことができ、彼らの従順を通して他のすべての国々も神を知るようになったでしょう。
3. ユダの罪
ユダは神の言葉を知っていながら、それを無視しました。彼らは表面的には神に礼拝を捧げていましたが、その礼拝は形式に過ぎませんでした。神の律法を軽んじ、その生活の中で神とは無関係に生きていました。詩篇50篇にあるように、彼らは神の律法を口にしても、実際にはその言葉を憎み、自分の欲望と快楽に従って生きていました。このような人々は、まるでブレーキのない車のように神の言葉を捨て去り、その結果、他人を傷つける「悪者」として聖書に描かれています。
また、ユダは先祖たちが従った偶像崇拝に惑わされました。偶像崇拝は単に他の神を拝むことではなく、世俗的な価値観に従って生きることを意味します。彼らはお金、名誉、権力、快楽に人生の中心を置き、神を離れ世俗的なものに心を奪われました。このため、ユダは神の言葉から離れ、ついには堕落してしまいました。
4. 北イスラエルの罪
北イスラエルもまた同じように罪を犯しました。彼らは貧しい者たちを搾取し、弱い者たちを踏みにじり、正しい者を銀で売り渡しました。貧しい者は靴一足の値段で取引され、その人格と命は安く売り飛ばされました。イスラエル社会では、弱者はまるで塵のように扱われ、誰も彼らを守りませんでした。イスラエルは神の言葉に従わず、世俗的な欲望と利益に従って人々を搾取し、虐げました。
また、イスラエルは神が特別に選び立てたナジル人と預言者たちを無視し、その献身を踏みにじりました。彼らはナジル人にぶどう酒を飲ませ、預言者には預言をするなと命じました。これは、神の御心を拒み、神の声を封じる行為と同じです。神はイスラエルを目覚めさせるために預言者たちを立てましたが、彼らはそれを拒み、堕落の道を歩み続けました。
5. 私たちも契約の民
今日、私たちもイエス・キリストを通して神と新しい契約を結んだ民です。私たちはイエスの十字架を通して救われ、神の子供とされました。しかし、救われたという事実で終わるわけではありません。私たちは新しい契約のもとで、神の公正と正義を実践し、神と隣人を愛する責任があります。
しかし、現代においても私たちは神の言葉から遠ざかることがあります。祈りを怠り、世俗的なものに心を奪われるとき、私たちも徐々に堕落していく危険があります。最初は小さな変化かもしれませんが、沸騰する水の中のカエルのように、その変化に気づかずに堕落していくのです。これは、ユダとイスラエルが経験した堕落のプロセスと同じです。
6. 堕落の原因: 神の言葉からの遠ざかり
ユダとイスラエルが堕落した原因は、神の言葉から遠ざかったからです。彼らは神との契約を忘れ、世の価値観に従って生き、神の公正と正義を無視しました。神の言葉を軽んじ、心に留めないなら、私たちも簡単に世の誘惑に引きずられ、堕落の道を歩むことになります。
7. 結論: 礼拝と神の言葉の重要性
私たちは、単に神の言葉を聞いて教会に出席するだけで満足してはなりません。礼拝は単なる形式ではなく、神との真の出会いと交わりの時間です。私たちは礼拝を通じて神の言葉を聞き、その言葉で心を新たにし、その御心に従って生き方を変えていく必要があります。そうしなければ、私たちもユダとイスラエルのように、神の御心から遠ざかり、堕落の危険にさらされることになります。
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