目を覚ましていなさい!
- オークー
- 2024年4月29日
- 読了時間: 4分
更新日:2024年5月7日
主人がいつ来られるか分からない、 思いがけない時に来られるので目を覚ましなさいと言われることがあります。この「目を覚ましなさい」とは何でしょうか。それは、主人を求める者は忠実で賢い僕ということです。
忠実で賢い僕とは、主人の御旨を守りながら彼らに食事を与えさせる者です。
時間が経ち、季節が変わっても、 主人がいても、いなくても自分に与えられた使命を誠実に行う者です。
主人がいてもいなくても、自分に与えられた仕事を誠実に行う者が幸いであり、私に与えられた使命を誠実に生きることが、私の人生を意味のあるものにするのです。そして、 そのような人生を通じて幸せを経験することになるでしょう。
私達の教会のスローガンは、日常生活の中で私達が光となり、生きることに欠かせない栄養の一つである「塩」のような人として人生を生きることです。
私たちの小さな光がすべての人や、世界を照らすことはできないかもしれないけれど、私たちの周りに疎外され、排除され、孤独に悲しんでいる人を照らす光となれる人生は生きられるでしょう。その人生を生きるためには、私たちはいつも主の前で、主と共に生きていく人生を学ばなければなりません。
「思いもよらない日、知らない時間に主人がやってきました。」
原語で見ると、 その時間帯はお昼でした。
全ての僕は与えられた仕事を真面目にやっている時に、 悪い僕は何もしませんでした。 いや、 悪い僕は主人のふりをして他のしもべを虐待し、酒に酔っ払っています。
悪い僕は、主人がいるときだけ、主人の前では真面目に働いていました。そして主人の信頼を得て、 他の僕を管理していたようです。
しかし、主人がいない時には、まるで自分が主人になったかのように振る舞ったのです。
主人に見えないからこそ、悪い僕が支配するようになってしまったのです。悪い僕が主人となり、王様になったのです。
「まるで、神になりたいと善悪の実を欲したアダムとエバのよう。
善悪の木の前で自分が誰であるかを悟ったアダムのように。
私たちが誰の前で生きている存在であるかを知ることが知恵です。」
申命記 1:15-17
当時、イスラエルには基本的に文字を読んだり書いたりできる人が6%しかいませんでした。 裁判長は、文字を読むことができなければならないし、記録をしなければならないので、書くこともできなければなりません。 そのため、6%に該当する人は既得権を持ってしまいます。
神様は「 正しく裁きなさい」と命じます。それを踏まえると、今の時代の法律は公正なのか?
その点で、裁判をする人は誰の前で裁くのかということがまた重要なのです。人の前で裁くのではなく、神の前で裁くのです。
次に出てくるのが外国人です。偏り見ることがあってはならないとあるけれど、その人が外国人なのか外国人でないのか、私たちは外見を見た時、すぐにわかります。
さて、今の時代自国民と外国人にとって法律は平等だろうか?
例えば、力のない国の人が罪を犯すのとアメリカ人が罪を犯すのと同じ罰を受けるのでしょうか?その国が持つ力によって、法律の適用が異なる場合があるのではないでしょうか。
神様はこのように 偏り見ることなく、みんなを「 正しく裁きなさい」と言われます。
身分の上下を問わず、貧富の格差を話します。 金持ちと貧乏人に対する法の裁きが公正であるのでしょうか?
「人の顔色をうかがってはならない」これも同じく、公正と公平に裁くことを再び強調する話です。そのためには、裁判長は神の前に立つ者であることを忘れてはならないのです。
ロバート・バンクスの「1世紀キリスト教徒の宣教物語」から抜粋
「回心したプブリウスは貧しい人々を助けること、正直で誠実に働くことで周囲の人々に信頼感を与え、彼の日常の会話、僕への接し方は、明らかに当時の人々とは異なる姿でした。大きな影響力を及ぼすような生き方ではなかったかもしれませんが、彼のようなクリスチャンの生き方は確実にローマを変えたのです。」
そして実際に1世紀の多くのクリスチャンは自分を迫害する者のために憐れみを与える彼らの姿を通して、多くのローマ人が回心したと言われています。
もしそうなら、宣教とは、私たちに与えられた日常生活の中で、他の人々と分離された生活を送るのではなく、その中で神の恵み、憐れみ、愛を示しながら、忠実に、正直に、誠実に生きることが大切でしょう。
「目を覚ましなさい」という御言葉は、私達にどんなすごい信仰やすごい人生を要求される言葉ではなく、いつ来るか分からない迫り来る患難の日を恐れて、現在も未来も失う人生ではなく、時に従って日常の生活の中で自分の分を誠実に生きなさいという御言葉です。
その時がいつなのか分かりませんが、私達にできることは、私達に与えられた人生を誠実に生きることです。
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