玉ねぎ一本
- k2simple1
- 2022年6月18日
- 読了時間: 4分
更新日:2022年6月25日
ヨハネ福音書12章24-25節
テーマ: 玉ねぎ一本

ドストエフスキーは19世紀中頃、ロシアの大文豪(世界中で広く知られた優れた作家)だ。
ドストエフスキーが書いた「カラマーゾフの兄弟」という本で、ゾシマ長老がこのような説教をします。
”地獄とはもう誰も愛することができない苦痛だ”
地獄が別にあるのではないだろう。 愛のないそこが地獄なのだ。
私たちが生きる世界をこのような地獄にすることがあれば何があるだろうか。
それは欲求であり欲望だった。
欲求が悪いだけではない。 しかし、人間が本能的な欲求だけを満たそうとするなら、どうなるだろうか。
思いやり、良心、省察なしに自分の欲求だけを追求すれば、そこは地獄になるのだ。
<玉ねぎ一本>
昔悪いおばあさんが住んでいたのに死んだそうです。
死んでみたら、そのおばあさんはいいことを一つもしなかったそうです。
悪魔たちがおばあさんを捕まえて火の海の中に投げ入れました。
その時おばあさんの守護天使がおばあさんがしたたった一つの 善行を見つけました。
神様、あのおばあさんは家庭菜園で玉ねぎを抜いて乞食にあげたことがあります。
すると神様はそのタマネギを持って行って火の海の中にいる 彼女に差し出すが、彼女が捕まえて上がってくるようにし、もし火の海から出たら天国に行くがタマネギが切れたら今いるそこに残るだろう。
天使はタマネギを持って行って火の海の中にいる彼女に差し出しました。
おばあちゃん、早く捕まえて上がってきてください。 気をつけて! ほとんど上がってきました。
ところがその時、他の罪人たちがおばあさんを捕まえ始めました。
おばあちゃんは彼らを足で蹴り上げながら、「これは私のタマネギだよ。あなたたちのものではない」と彼女が言うと玉ねぎがぷつんと切れてしまいました。
そしておばあさんは火の海の中に落ちて天使は泣きながら去っていきました。
ただ一度も先行したことがないということは、どういうことなのだろうか?
守護天使はおばあさんを救うためにおばあさんの人生を探してタマネギを一本見つけた。
人生をすべて探し出した善行が玉ねぎ一本である、守護天使はなぜそのようなおばあさんを救おうとしたのだろうか。 おばあさんを憐れみんだからだ
そんな人だとしても地獄の火に苦しむのがかわいそうなのだ。
タマネギ一本で救われるなら、タマネギはもうタマネギではない。
それは「神の恵み」なのだ。
しかし、おばあさんは「玉ねぎ」が恵みだということを知らなかった。 神様がおばあさんに与えた恵みということを知らず、むしろ自分が苦労して得た実だと思った。
タマネギが本当にタマネギだったら、一人も救えないだろう。 タマネギの根がどうやって人の重さに耐えられるというのか。そしてタマネギが切れた決定的な契機があった。 それはおばあさんのこの一言だった。
「これは私の玉ねぎだよ。あなたたちに違うって」
私だけが選ばれて救われたということだ。 自分だけが救われるに相応しい者だということだ。
人に対する憐れむ心がない。
おばあさんは自分と違う人は違う」と区別した。 関係が断絶した.
おばあさんは傲慢で、利己的で他人を憎悪したというのだ。
これは一セットになっておばあさんを地獄に追い込んだのだ
個人の欲望、利己主義で結局誰も救われなかった。 そして皆地獄の火に戻った。
それでは、その地獄から出られる唯一の方法は何だったのだろうか。
それは「愛」であった。
愛は絶えず犠牲にしながら自分を完全に捨てて他人を愛するということは自分を完全に回復することだ。
自分を完全に回復するのはどういう意味か。 人間の内面には悪だけでなく神様の姿もある。 私を犠牲にしながら他人を愛する時、初めて神様の形でつくられた人間の内面にある神様の姿が回復するのだ。 それが私たちが回復しなければならない神様の形でつくられた私たちの姿だ。
ドストエフスキーは話す。 「私は存在する。 そうして愛している。」
これは存在するなら愛せということだ。 選択の余地があるわけではない。
あなたが存在しようとするなら愛さなければならないのだ。
クリスチャンは皆種になってこの世に落ちて実を結ぶ存在として生きていくのが使命だ。
その愛の実践が始まるところは、まさに私たちの隣の人、私たちの家族から始まることだ。
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