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主の祈りー御心が天に行われるとおり、     地にも行われますように。

マタイ福音書6章10節

御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。


この祈りは実に難しい祈りのようだ.

なぜなら、神様の御心に劣らず重要だと考える私のこころがあるためだ。

私たちは普通、私たちが望むことがある時に,願うことがある時に祈るが、私たちが当然に

神様の前に捧げられなければならない祈りは、神様の御心が私のこころになることを祈る祈りだ。


私たちがすべきことは神の御心を見分けることだ。

ところで分別するためには資格が必要だローマ書12:1-2

神様と協力することを決断し、神様に自分の人生を託した人に、神様はあなたの御心を示してくれる。神様の御心は神様に捧げられた人々にあらわれる。

しかし、神様の御心ならの祈りはまるで神様に全面的に承服するようだが、確信もなく情熱もない無責任な祈りかもしれない。 神様の御心なら成し遂げて下さり、そうでなくてもいいという姿勢で祈る場合が多いためだ。 あなたの計画と目的に私が何かをするというのではなく、単純にうまくいくことを願うという意味にしかならない。 ここには自分の責任がない。

神様が自分の御心を叶える時、もちろん神様がなさるが、神様は絶対に一人で働かない。

必ず神様を信じる子供たちを通じて自分の御心を世の中に表わす。

救われた神様の民と教会を通じて神様は神様の御心を成す。

したがって、私の責任が入る祈りだ。

したがって、私の責任を痛感して捧げなければならない祈りだ。


それでは神様の御心とは何ですか?

神様のよろこぶところである、神の意志である。 神様の計画と目的である。

私たちが神様のすべての計画と目的を知ることはできない。

聖書を通じて見せてくれた一部分だけが分かるだけだ。

ところが不思議なことにイエス様を信じる多くの人が神様の御心が分からないと思ってる。

しかし、神の御心は分からないものではない。 はっきり分かる。


神様が私たち一人一人の人生を通じて栄光を受けることを願う。 これが神の御心だ。

周りの人と愛し合って生きることも神様の御心だ。

私の周りの人たちが神様に戻ってくるのは神様の御心だ。

苦痛の中にいる人々のために祈らなければならない。

神様は人々が苦しむことを望まないためだ。



イエス様はあなたたちは世の光と塩だと話された。

天国の塩でも天国の光でもないこの世の光と塩である。

イエス様はこの世で私たちがどのように生きなければならないのかをおっしゃってくださったのだ。

隠された存在を表す光で生きるこどだ。

雪を溶かす塩、畑の肥料として撒かれる塩、食べ物の味を出す塩として、

私たちは世の中に撒かれて世の中を有益にするのだ。

そのため、祈りは祈りで終わることはない。

祈りは私たちが方向を失わないように私たちを悟らせる神様の音声だ。

祈りは私たちを起こす神様の両手だ。

祈りは私たちを生きていく原動力だ。


パウロは一生の間、偉大な人生を生きるために血がにじむような努力をした。

彼が残した言葉の中で私は自分のからだを打ちたたいて從わせます、わたしは日々死んでいます。

使徒パウロの有名な言葉である。

パウロが主の御言葉通りに生きるために孤軍奮闘したことが感じられる。


今日皆さんにこういう質問をしたい。

あなたはこの世で究極的に何のために生きているのか?

神様が創造された世界の片隅で、その方の御心が叶うことを涙で祈り、献身しているなら、

あなたは神様の前で大きな人である。

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