主の祈りーわたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように
- k2simple1
- 2022年8月13日
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マタイ福音書6章12節
主題 主の祈り-許し
ある日、孔子の弟子子貢が孔子に聞いた。 私が死ぬまで実行に値する一言があるとしたら、それは何でしょうか?
子貢の質問を受けた孔子は子貢にこう答えた。 それは恕だ。
孔子が言った恕は許しを得るようにする心だ。
恕の字は同じ「如」の字の下に「心」の字がついた。
自分を許すように他人を寛大に受け入れる心が恕だ。
私に甚大な被害を与えた人は私の目に人とは見えない。
この時、恕の心は人と見るようにする。
人を憐憫にさせる. その人を理解させてくれるのだ。
私たちは心で理解できないことを心で受け入れることができない。
許すことは対象に逆らわず受け入れることだ。
わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
Forgive us our debts, as we also have forgiven our debtors.(NIV)
<罪を負い目で表現した理由>
罪を犯した者、罪という表現の代わりに「負い目」という単語を使っている。
罪とは返すべきことを返さなかったことだ。 言い換えれば義務を不履行したのだ。
罪というものは抽象的で精神的なものではなく、当然返さなければならないものを返さなかった場合のように非常に現実的なものであることを示している。
<1万ドタラントンが与える意味>
人間の能力では神様に借金を返すことができないという事実だ。
当時、パレスチナとユダヤ地域全体から出る一年分の税金が8タラントンだった。
1万ドタラントンは当時パレスチナ地域では想像できない規模の大金だった。
しかし王はその損害を甘受して借金をなくした。
返す能力のない僕を哀れに思ったからだ。
<許すためには?>>
許すためには許されなくてもがく過程が必要だ。
その最後に、自分の力でできるのではなく、神様がくださる恵みでなければ許せないということを悟らなければならない。

<ソン·ヤンウォン牧師>
韓国で尊敬される牧師の一人がソン·ヤンウォン牧師だ。
1948年麗水·順天事件の渦中に順天師範学校に通っていたソン牧師の二人の息子ドンインとドンシンが殉教することになる。
当時、ソン牧師は愛養院教会で礼拝を導いていたが、突然の2人の息子の殉教ニュースに接しても、すべての礼拝を正常に導いた後、感謝の祈りを捧げた。
「神様、志があって私の2人の息子を呼んだと信じて感謝します。 神様、私の二人の息子を殺した人、彼の命を保存してください。 私が伝導します。 彼がそのまま地獄に行ってはいけません。 神様、私に彼を愛することができる心をください。」
二人の息子の葬儀場でソン牧師が言った挨拶です。
「私がこの時間に何の踏査をして何の挨拶をすると思いますが、
それでも神様の前に感謝する気持ちがあっていくつか申し上げます。
まず、私のような罪人の血統から殉教の子供たちが出てくるようになったので、神様ありがとうございます。
第二に、数多くの聖徒の中で、どうしてこのような宝物を主がよりによって私に任せてくださったのか、その点もまた主に感謝します。
第三に、3男3女の中でも最も美しい二人の息子の長者と次子を捧げるようになった私の祝福を神様ありがとうございます。
第四に、一人の息子の殉教も貴重だというのに、まして二人の息子の殉教でしょう、神様、ありがとうございます。
第五に、イエスを信じて横になって死ぬことも大きな福だと言うのにまして伝道して銃殺殉教されるでしょう、神様ありがとうございます。
第六に、アメリカ留学に行こうと準備していた私の息子、アメリカより良い天国に行ったので、私の心が安心して、神様ありがとうございます。
第七に、私の愛する二人の息子を銃殺した仇を悔い改め、私の息子にしようとする愛の心をくださった神様、ありがとうございます。
第八に、私の二人の息子の殉教によって無数の天国の息子たちができると信じられ、私たちの神様ありがとうございます。
第九に、このような逆境の中でも以上8つの真理と神様の愛を探す嬉しい気持ち、余裕のある信仰をくださった主イエスキリストに感謝します。
十番目、このように過分な祝福を受けられることを感謝します」。
<許しの力はどこから来るのだろうか?>>
私たちは許す能力がない。 他人を許すほど心が広くもなく、寛大だったり利他的な人でもない。 私たちの力では絶対できない。 しかし、許された人は許すことができる。
1万ドタラントンもなくしてくれたことに気づいた人は、百デナリオン、千デナリオンも許すことができるようになる。
私たちとしては到底返せないその借金を神様がなくしてくれた。
それも直接費用をお支払いいただくことで、その借金をなくしてくださった。
その費用がまさにイエス·キリストである。
人間が決して支払えない20万年分の年棒を王様である神様が無くし、
その損害を自ら被った。
神様の許しと愛はいつも私たちの罪より大きい。
マタイ福音書18章33節
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
私たちが他人を許すことは、私に過ちを犯したが、返す能力のないその人を哀れに思うことだ。 神様に条件のない許しを受けた恵を体験したなら、他人を哀れに思うことができる。これが許しの力だ。
許しの力は私にあるものではない。
神様の許しを受けたその恵が、私たちが許すことができる力であるのだ。
<実践>
許しを請う人の立場で許す義務ではない。
今は許せないかもしれない。
時間が経って許す心が準備できる時に許しても大丈夫だ。
それでも日が暮れる前にはそうできたらいい。
正しく許すことも大切だ。
誰かが私に許しを請う時、『大丈夫』と適当に見過ごさないでください。
許しはそう軽くはならない。
直ちに許すことは容易ではない。
実は心が傷ついたと率直に告白して時間をちょっとくれと言ってください。 そして神様の前に進み、その問題を持って祈ってください。 神様の前でこの問題を解いてから私がもうあなたを許します。 神様が私を許したからです。と言えるでしょう。
これが真の許しだ。
許しを得ない場合でも、誰かが私を絶えず苦しめ、間違って接するなら、まず彼に聞いてみなければなりません。 過ちを伏せたりもみ消したりすることが許されるものではない。 許しという名で自分を傷つけるべきではない。
<結論>
クリスチャンが他人を許すことは道徳水準の問題ではない。 人格修養の問題ではない。 信仰の問題だ。 神様がキリストの中で私をどのように許したのか、神様に私が受けたものは何なのか、それを深く体験するほど私たちはお互いを許すことができる。
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