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主の祈りとは

 

マタイによる福音書6:5-8

イエス様は自ら弟子たちの前で奇跡を行うことを何度も見せてくださった。 嵐の上を歩いたり、病んだ者を直したりもした。 弟子たちはこのすべてを3年間見て聞いて経験した。

それでは弟子たちはイエス様から学びたいことが何だったのだろうか。


ルカによる福音書11ー1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。


イエス様が教えてくださる祈りは能力の祈りだ。

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 マタイ5:44"

したがってイエス様が教えてくれた祈りは、私を愛する人や兄弟だけのためだけではない。 イエスは十字架から水と血を全て流しながらも、神様に許しの祈りを捧げた。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 ルカ23:34"

自分を嘲弄し殺す者のために祈る。 彼らを許してほしいと祈る。

イエス様の祈りはそのような祈りである。 その能力は、敵さえも愛で覆ってしまう能力の祈りだ。


イエスは祈る時、 奧まった部屋で祈るように言われた。

僞善者たちは 人に 見られたくて 會堂や 通りの 四つ 角に 立って 祈るのが 好きだから

しかし、祈りは誰かに見られたいことが目的ではない。

祈りの目的は神様の御旨に従うためだ。


1. 主の祈りは礼拝順序の一つか。

主日ごとに 主の祈りの歌を歌ったり、 主の祈りを一緒に通読する。

その分、 主の祈りは私たちが忘れてはならない重要な祈りであるためだ。

ところが、長い信仰生活をしてきたが、 主の祈りの重要性は知りながら、 主の祈りが正確にどんな祈りなのか、まともに学んだことはなかった。

しかし、主の祈りは私たちを変化させる祈りだった。

私たちを新しくする祈りだった。

私たちを神の国の民にふさわしく変化させる祈りだ。

祈りを学んだら、祈りをしてこそ祈りが何かを知ることができる。

そのように祈っていると、神様が望む祈りが何かを知ることになる。

私の欲のための祈りより 神様の御旨を求める祈りになっていく。

そして、そのように 神様の御旨を求める祈りは、すなわち私たちの人生を変化させる。


2.それなら、主の祈りは誰がするのか。

主の祈りは誰にでも捧げられる祈りではない。

神の国の民だけが人間が作った神ではなく、自ら存在する神様が呼び出した民だけが、神様と疎通し、この地で神様の御旨通りに人生を生きることができる。

その驚くべき秘密が含まれているのがまさにこの主の祈りだ。


神の国の民は主の祈りで祈り始めた人々であり、主の祈りの人生を求める人々だ。

そして 主の祈りがその人生の中で実現し始めた人々だ。


マタイ6-9 " だから、あなたがたはこう祈りなさい、

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。

ギリシャ語の原語順->「だから、こう祈りなさい あなたがたは

だから、こう祈りなさいと言っても分かるのに最後のあなたがたは!は強調である。

あなたがたは」特別な民なので「こう祈りなさい」ということだ。

主の祈りは「あなたがた」がどんな存在なのかを説明してくれる。

あなたがた」とは神様の道に従う人々だ。

キリストに従う者たちにイエスはこのように祈るように教えてくれた。


3. 主の祈りはイエスの心である。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。ヨハネ17:3

偽者と偽りが飛び交う世の中で、聖徒である私たちはイエス様の心を知らなければならない。

そして見習わなければならない。 それがすなわち永遠の命を生きることだ。

永遠の命であるイエス様を知りたいなら、イエス様が教えてくださった祈りを知らなければならない。

それでヨハンは 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。ヨハネの手紙一 2:4-5

と述べた。

だからイエス様の だから、あなたがたはこう祈りなさい マタイ6:9 にはイエス様の心が入っている。 そのように神様の心を知れば、私たちがこの世に生きている間、どのように生きなければならないのかが分かる。


祈りは言葉で行われることもあるが、言葉だけ上手だからといって祈りではない。

祈りは言葉だけでなく能力だ。 何の能力?クリスチャンとして生きる能力だ。

イエス様に祈る神様の御旨通りに生きる能力だった。 コリントの信徒への手紙一4:20


4. 祈りは生き抜くことだ

祈りは言葉だけでなく生き抜くことだ。 イエス様があなたがたはこう祈りなさい とおっしゃったのは、単に主の祈りの暗唱ではなく、このまま生きろ!

イエスは自分が生き抜いている祈りを私たちにくれた。

マタイ23:3-4 イエス様は自分の人生を私たちに祈りとしてくれた。 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。マルコ8:34 その人生の真髄がイエス様が自らくださった祈りの中にあるということだ。 すなわち、生き抜く人生の告白が本質的な祈りであり、そう生きようともがくのが私たちの祈りでなければならない。

 
 
 

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