主の祈り 天におられる私たちの父(1)
- k2simple1
- 2022年5月22日
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マタイ6:9
<父という存在>
イエス様は神様を父親と呼ぶように教える。 非常に親密な関係でいつでも訪ねて行くことができ、呼べる父親のようなそんな方で呼べということだ。
イエス様がおっしゃるお父さんはどんな存在だろうか。 古代社会の父親という存在は、人生を生きていく知恵があった。 父は力強くて、何事もてきぱきと解決してくれた。 家庭の中で父は権威を持った存在だが、自分の持つ知恵と力、そして愛で 家庭を守る存在だった。 神様が父親という意味は古代社会の父親の姿と似たような姿だ。 賢く、強くて、すべてのことができる神様が私たちへの深い愛で 私たちを守ってくれて、私たちのために喜んで犠牲することを厭わない。
ところが父親との関係を経験したことのない人、父親になったことのない人、暴力的で利己的な父親の下で多くの傷を負った人が私たちが周りにとても多い。 罪のあることの中で最も大きなことは関係を破壊することだ。 罪は私たちの中に入ってきて人と人の関係を破壊してしまった。 父親と子供との関係をはじめ、すべての家族関係を壊した。 互いに愛し、頼り、喜ぶべき関係を憎み、憎み、傷つく関係に変えてしまったのだ。 だから私たちは神様をお父さんと呼ぶことがどんな意味があるのかどんなイメージなのか ろくに知らない。 それで今日この時間、聖書を通じて父親がどんな存在なのかを悟る時間になることを祈る。
イエス様が弟子たちに最も知らせたかった祈りは神様との関係だ。 その関係は父と子だ。 イエス様はなぜこのように神様との関係を父子(ふし)関係で表現されたのだろうか。
神様は父または母として私たちを創造し、私たちを保護して私たちに必要なものを用意してくれる。 しかし、親の愛には私たちがよく忘れるもう一つの要素がある。 それは犠牲だ。
私たちに対する神様の愛は変わらない、そして誰も止められない強力な紐でつながっている。 だから神様に捨てられることを恐れるな神様の愛を疑うな 神様はすでにイエスを通じて自分の愛を証明した。
<神様は父> 誰が神様をお父さんと呼べるのか。 子供でなければ呼べない 言い換えれば、神様をこのように呼んで祈ることができるためには神様の子供にならなければならないのだ。 どうすれば神様をお父さんと呼べるお子さんになれるのか? しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
(ヨハネ1:12) イエスを受け入れた者、すなわちイエスキリストを信じる人が神の子となり、それは資格である。 神様の子が持つ資格とは何か? 神様を父と呼ぶことである。 子供が父親に求めるように、私たちも神の子として父親に祈りを捧げられるということだ。 誰もが神を父と呼べない 神様を父親だと遠慮なく呼べる人がすでに神様との特別な関係にある人たちで資格を持った人たちだ。
<私とあなたのお父さん> 神様を父親と呼ぶことが特別に重要だった理由は、この呼称(こしょう)が神様と信者の関係を物語っているためだ。 私たちが本当に一人の父親の子供なら、私たちは皆兄弟で姉妹だ。 これと関連して他の多くの文を引用することもできるが、その中でもアウグスティヌスの次の文がこの事実を最も簡明に示している。 私たちの間にいかなる差別もなく、私たち皆が私たちの父親だと言う。 どれだけいいか! 皇帝もそう言い、乞食もそう言う。 僕もそう言って、 僕の主人もそう言う。 みんな口をそろえて言う。 天におられるわたしたちの父よ 、これで彼らは自分たちが兄弟姉妹であることを宣言する。 一人の父親を仕えたからだ。 だから主人は 僕 を兄弟にすることを恥と思って断るな。 その僕は主キリストが主人の兄弟だと思った者だから
イエス様の死と復活によって神の国が建てられる。 そして新しい民が生まれた。
この国の民は互いに家族関係だ。
主の祈りは誰でもするものではない。 主の祈りは神様が父親になった人々が捧げるげることができる祈りだ。 神様を父親と呼ぶ時、感激に陥る人々が捧げる祈りだ。 主の祈りは誰にでも差し上げることができる祈りではない。
ただ自分がうまくいってこの地で成功し苦痛を避けるためだけに祈る人ではなく、
神の国の民、私が愛する姉妹と兄弟たちを心の中に抱いた人々が捧げることができる祈りだ。
<結論>
神様が私たちの父になることに感謝しながら祈る時、神様が私たちの父になることを
その父は私たちのために自分の命さえも惜しまずくださる方であることを
その愛で私たちの祈りを聞いてくださる方であることを記憶し
今日、神様にお父さんと呼びながら祈りましょう
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