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主の祈り- 天におられるわたしたちの父よ(2)

マタイによる福音書/ 06章 09節

だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。


<私たち>

イエスは祈る時、私の父ではなく私たちの父だと祈るようにと言う。

「私たち」には私が主日ごとに出席する教会が含まれる。

しかし出席する教会だけでなく他の多くの教会も含まれる。 その教会だけでなく、私のように私たちの父だと祈る数多くの人で構成された遠い国の他の教会もある。 知らずに考えたこともないが、私たちは皆共同の父である神様に向かって祈っている。


それで、私の父と呼んで祈る時、たとえ体では一人でも私たちは一人で祈るのではない。

一人で祈っても、多くの人の中で祈っても、互いに異なる数百の言語で、キリストの体である

この巨大な私たちは心を一つにして祈りを捧げる。 私たちの父だと


神様は私たちに愛する兄弟と姉妹を下さった。

共に祈る同役者をくださった。

ここに韓国人、日本人、中国人が集まっているが、イエス様の名前で集まる時、

私たちは一つの兄弟であり、一つの姉妹になる。

神様を私の父と呼ぶからだ。

だから、私一人でクリスチャンだと寂しがる必要はない。

誰かが私たちのために祈っている。 誰かが私のために祈っている。

私たちは主の中で一体であり、一つの兄弟だからだ。

そのように神様が私たちを私たちになるようにした。


私たちが 天におられるわたしたちの父 と呼び、私たちを思い浮かべる時、私たちの愛の幅が広くなり、私が地球上にいるすべてのクリスチャンが捧げるこの祈りに共に連帯しているという感激を感じるようになる。 私一人で捧げる祈りではなく、地上のすべての神の国の民と共に私の父に捧げる祈りという感激だ。


<分裂させる罪>

ところでファリサイ派の祈りはどうなのか。

ユダヤ人の指導者であり、先生だった。

彼らは区別意識がはっきりしていた. 私とあなたはひとつではなく違うということだ。

だからファリサイ派は別に祈る(ルカ18:11)だからイエス様は彼らを見習わず(マタイ6:28)

あなたたちはこのように祈るように教えてくれる。

アダムは、「私の骨の中の骨であり、肉の中の肉だ」と唾を飛ばしながら言うと、神様が「誰があなたの脱いだことをあなたに知らせたのか」「私があなたに食べるな」と命じたその木の実を、「あなたが食べたのか」(倉3:11)という問いに、「骨の中の骨のエバを、今すぐアダムのそばにいるにもかかわらず、女と呼ぶ。創3:12アダムと女はもう自分と一体ではありません。

私たちでもないと線を引いたのだ。

罪はこのように私たちを分裂させ、連合を破る。 一つの体を成すのではなく、二つに分かれるに向かわせる。


<またひとつになる>

それにもかかわらず、御子キリストであるイエス·キリストがいらっしゃって、今は新しい私たちを創造される。

使徒パウロは言う。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 (コリントの信徒への手紙一15:17)

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリントの信徒への手紙一 12:13)

わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 (ローマ 12:5)

最初のアダムは妻と自分の区別がつかないことを主張した. 罪の現象だ。

しかし、2番目のアダムに来られた 御子キリストであるイエス様は、新郎として最後まで、

死ぬまで愛している。

そして私たちは皆イエス·キリストの中で建てられていく。


私たちは聖徒の交際を交わす間柄だ。

私とあなたが私たちになるしかない理由は、一つの建物と場所で礼拝をするからではない。

私たち皆同じ聖霊を受けてその聖霊の使役によるからだ。


キリスト教は旅程だ。 神様と一緒に行く道だ。

この道はイエス様を信頼して行く道だ。 したがって、全面的に冒険だ。 主の祈りを共にしながら、一緒に生きていくことで、私たちは神の国である民になっていく。

私たちそのように一つの兄弟として一緒に主の道を歩むことを願う。

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