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主の祈り- わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

主の祈り- わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

今日のこの祈りは、毎日食べていくのが切迫した者たちが叫ぶ祈りでもある。

一日の食事も大変だった彼らにとって、この祈りは最も現実的な祈りだったのだ。


荒野でイスラエルの民は神様がマナをくださらなければ飢えなければならなかった。

荒野には他に食べ物がなかったからだ。

神様は彼らに40年間マナ与えた理由は何だったのだろうか。

事実、神様がくださるマナが彼らの命を維持させるのではなく、毎日会ってくれる神様が彼らの命を維持させてくれるということを悟らせるためだったのだ。


イスラエルは神様から与えられる恵を毎朝、贈り物をして拾い集めなければならなかった。

パクチーの種と呼ばれる種を毎朝2.3リットルほど拾い集めなければならなかった。

何の苦労もなく得られることだけが恵ではない。

むしろ、 ただで与えられた恵を与える苦労さえしないのが放蕩なのだ。


「 必要な」という表現は「十分な」という意味だ。

その日,必要なものを持っただけでも神様はもう十分だという。

しかし、より多くのことを持つことで明日を保証されたがっていたイスラエルは、神の言葉を無視してそれ以上のマナを拾い集めた。

しかし、荒野でマナを 必要より多く集めた人々は腐って臭い、虫ができたマナを結局捨てなければならなかった。


なぜなら神様は彼らに今日の必要な糧それ以上のものを許さなかったからです。

多くのクリスチャンが毎日神様を依存するのではなく、先週礼拝の時に受けた感激を依存して生きていく。 いや、数年前のリバイバル会の時に受けた感激を依存して生きていく。 しかし、それは腐ったマナに過ぎない。 昔の恵だけを覚えて生きていく人生ではなく、毎日神様の恵を発見し、その恵を互いに告白して生きていく私たちになることを祈る。

神様は私たちに今日新しいマナを与えることを願う。


「 必要な」という言葉はまるで あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)のような言葉だ。

ちょうどその分だけなのだ。 小さな灯りは私の足元を照らすだけで、それ以上は照らさない。

今歩かなければならない一歩、その一歩だけ照らしてくださる。

だから私たちは父に私たちの今と今日だけ任せれば良い。

そうしていると、生涯を神様に任せるのと同じだ。


信仰とは生き方だ。

私が毎日心配しないで生きているという意味だ。

心配しながら一生を生きていく人が多いようだ。

しかし、クリスチャンは心配を祈りに変える人々だ。 問題がないのではなく、その問題を神様に任せるためだ。 心配を並べ立てたからといって心配は消えない。

これに対しパウロ使徒はこう話す。 (フィリピの信徒への手紙 4:6-7)

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。


私たちの心配を神様に委ねると、神様は心配から私たちの心と考えを守ってくださる。

神様が必要な糧をくださったが、「私に」ではなく「私たちに」 必要な糧である。

量が決まっているのに、誰かが二分を三分持って行ったらどうなるだろうか。

もし、必要な糧の他にそれ以上多くのものを持っていれば、持っていない者のために握り締められた手を伸ばせばいいのだ。 多くのことを両手いっぱい握っている人は、 他人のために差し出せる手がない。 他の人のために差し伸べる手があるということは、すでにもう一方の手は神様の手を握っている人だろう。


今日のこの祈りは驚くべき祈りだ。

利己的な心から脱し、隣人を顧みる祈りを捧げるようにするためだ。

私たちの祈りが世の中を抱き始めれば、私たちはまもなく地球共同体を考えるところまで進む。

私たちが必要な糧を語る時、地球上の貧しい地域で暮らす人々を考えるようになる。

それで私たちが私たちの周辺にいる人々そして絶対貧困に苦しむ世界の市民たちと私たちが持っている一部でも分かち合うという祈りを捧げることになる。


この祈りは偉大な祈りである。 この地の神の国の民が世の中の方式に従わずに尊く生きていくことを決断する祈りだ。 神様だけが私たちの命の根源だと告白する驚くべきで大胆な祈りだ。 キリスト教徒が本当にこの祈りを捧げ始めたら、その人生は変わるしかない。

教会そのものが 変わるしかない。このように変わった教会は世の中を変えさせるしかない。


最後に主の祈りは祈りであるだけでなく約束でもある。

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と言う時、 我々は自分に必要な分量より多いことは、他の人と分かち合うことを約束することだ。

十分に持てない人がもう少し持てるように、私ができる限りのことを全てすることを約束することだ。

このように必要な糧を分ける時、神様の名前が崇められるようになる。

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