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ディディモと呼ばれるトマス


ヨハネ福音20:24-31(復活節)

「平和があるように」

安息後の初日の夜、復活したイエス様が弟子たちに言った一声です。

 イエス様が捕まった時、自分を捨てて逃げてしまった弟子たちです。

 イエスが埋葬された墓にも弟子たちは現れませんでした。

 イエスの遺体を収拾することにも弟子たちは一切現れませんでした。

そのような弟子たちを責めるよりは挨拶をしてくれます。

まるで彼らのしたことを忘れてしまったようです。


「忘却の恵み」

イエス様の最大の能力は、忘れてくれる能力です。

イエスは、自分を捨てた弟子たちを審判したい気持ちを抑えながら、知らないふりをして挨拶をしたのではありません。

神様は弟子たちの過ちを忘れて、覚えていない方だからです。(イザヤ38:17)

神様はわたしの罪をすべてあなたの後ろに投げ捨ててくださった方だからです。

神様は私たちにも忘却の恵みをくださいました。

忘却があるから私に過ちを犯した人を許せます。

そして私もやはり私の過ちを許されることができます。

だから忘却は神様が私たちにくださった贈り物または恵みです。

忘却がなければ許すことも許されルコともできず、我々は生きていくしかないです。

だから忘却は愛であり知恵であり 恵みです。


「イエス様の傷」 

傷は不完全なものです。

復活したイエスの体は綺麗ではありませんでした。 傷がそのまま残っていました。

不完全な体です。

ところでイエスの弟子たち皆が穴のあいた傷を見て喜びます。

イエス様が本当に復活したからです。


イエスの傷は弟子たちにとって慰めであり、喜び、そして希望でした。

それで傷は不完全なのではなく光栄です。

神様を愛するために、隣人を愛するために受けた傷は光栄です。


「トマスの疑い」

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」」

 イエスに対するトマスの疑いは理性的で合理的です。

疑いは悪いことではありません。

それでイエス様はそのようなトマスの疑いを無視したり責めません。

信仰とは、疑いの段階を経ればより強固になることがあります。


「ヨハネによる福音書が書かれた目的」

イエスは神の子メシアであると信じるためであり、

イエス様が神の子キリストであると信じてイエスの名により命を受けるためである

与えられた人生を正しい人生で生きるためです。

私たちの目には見えませんが、感じることもできませんが、数多くの光や空気、音などが存在しています。虹を見ながら、赤、黄、緑、青、紫の色があると言いますが、私たちが見られない色が存在し、

あるということも私たちは知っています。


22億のキリスト教徒が神様を信じることは彼が見えなくても神様が私たちにくださった

聖書を通じて十分神様を知るようになったからです。

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