シロアム (1)
- オークー
- 2024年6月16日
- 読了時間: 6分

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
では、イエス様がいた当時、盲人を見る人々の視線はどうだったのでしょうか?
誰も関心を持たなかった。
隣人から疎外され、放置された。
生まれてから一度も前を見たことがないこの人は、自分の人生にどんな希望を持ったことさえなかった。
彼には現在も未来も暗闇しかなかった。
2 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」
ユダヤ人は、特定の病気や障害は、その人やその人の親の罪によって引き起こされたものだと考えていた。
障害は神の罰であったからである。
この質問に対して、イエスは人々が全く予想していなかった答えをされました。
3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
詩篇を見るとよく出てくる御言葉があります。
詩篇42:10
わが岩なる神にこう祈ろう。/「なぜ、私をお忘れになったのか。/なぜ、私は敵の虐げの中を嘆きながら歩くのか」と。
なぜそうなのか尋ねるが、実は誰も答えを出すことができない。
なぜなら、人間は神様のなさるすべてのことを理解することも、知ることもできないからである。
しかし、今日の本文を通して知った事実は、神様は到底耐え難いその苦しいことからも神様の御業を現すことができるということである。
4 私たちは、私をお遣わしになった方の業を、昼の間に行わねばならない。誰も働くことのできない夜が来る。
"時がまだ昼間というのは、働く時ということだ。"
4節 昼間は働く時間である。そして、昼間は光がある時間である。
5 「私は、世にいる間、世の光である。」
イエス様は世の中に光として来られ、その光は暗い世の中を照らす。
では、夜になるということは何だろうか。 それはイエス様の死を意味する。
イエス様が神の御業を担っているとき、すべての昼と夜は光に満ちている。
しかし、イエス様がもはや神の働きをすることができなくなるということは、イエス様の死を意味する。
これはつまり、世の中は光を失ってしまったのである。
光を失ったから夜になってしまったのだ。
だから、イエス様は私たちに世の光になれと言われる。
世の光とは何か?
疎外された人に友となり、苦しんでいる人の苦しみを減らそうとし、人間の人生がどれほど尊厳であるか、生きているすべての存在がどれほど尊いか、このようなことを思い起こさせることが、イエス様を送ってくださった神様の御業である。
イエス様ご自身がこの世の中の光として神から送られた使命を引き受けたように、私たちも自分と同じように神から与えられたその使命を担う世の中の光になれということである。
イエス様から渡されたこの炎が、凍った多くの人々の心を溶かす救いの光となることを祈る。
6-7
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、見えるようになって、帰って来た。
イエス様は泥を作り、病気を癒した。
イエス様は安息日にやってはいけないことをした。
神様が定められた日を破ってしまったのだ。
イエスはなぜ安息日にやってはいけないことをしたのだろうか?
安息日は本来、人のための日だからだ。
当時の奴隷や 女性、旅人などは休む日がなかった。
ところが、神様が安息日を作り、その日を聖別し、皆に守らせた。
強制的に休めるようにしたのである。
安息日は、一日中肉体労働に苦しんでいた奴隷と女たちにとっては、待ちに待った喜びの日である。
そしてこの日だけは、金持ちも貧乏人も、主人も奴隷も、男も女も平等に休むことができる。
この日は誰もが人として扱われる日である。
安息日を休んだからといって、金持ちは飢え死にすることはない。
それにもかかわらず、権力者たちは安息日に奴隷を休ませなかった。
彼らはより稼いで、金持ちになることを止めなかった。
神様がなぜ安息日を聖別されたのか関心がない。
自分たちだけが安息日に家族と一緒に美味しいものを食べて休めばいいのだ。
奴隷の人権など、女性の人権など、異邦人の人権など関心外である。
イエスは穴に落ちた羊を例に挙げている。
実際、非常に厳しい律法の解釈では、水たまりに落ちた家畜を救うことさえ禁じられていた。
しかし、一般的に人々は家畜が穴に落ちたら、安息日でも救った。
家畜は当時の農業社会で非常に重要であったからである。
獣の苦しみにはそんなに関心があるのに、人を苦しみから救うことには関心がない。
神は血まみれの祭祀を喜ばない。
人々は誤解していた。
動物を神に捧げれば、神が喜んで自分のすべての罪を赦し、自分を祝福してくれると!
詩篇51:18-19
なたはいけにえを好まれません。/焼き尽くすいけにえを献げても/あなたは喜ばれません。
神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。
しかし、神が祭祀を通して望まれたのは、動物ではなく、傷ついた心だった。
傷ついた心は、自分の罪を取り除くことに焦点があるのではない。
むしろ、自分を圧迫するその罪の重さに苦しんでいる心である。
神は、私たちに動物を捧げることで自分の罪をごまかすことを望んだのではない。
本当は自分の罪にきちんと向き合うことを望み、その罪から立ち返ることを望まれたのである。
私たちにとって安息日は、私が休むことにポイントがあるのではなく、すべての生きたものがその尊厳を失わないためにあるのではないでしょうか。
命を持って生まれたすべての存在が、当然尊重され、扱われる権利を受けられることを意味しているのではないでしょうか。
今日、盲人はイエスが言った通り、シロアムに向かった。
シロアムに行くためには、坂道を下らなければならない。
誰かの助けがなければ行きにくい険しい道である。
それでも盲人はためらうことなくシロアムに向かう。
そして彼の目は開かれ、見えるようになった。
御言葉は聞く時ではなく、実践する時に悟る。
先週、ペテロがイエス様の御言葉に従順して多くの魚を釣るようになった時、彼はイエス様を主と呼んだ。
御言葉は頭で悟るものではない。
身体で覚えることである。
私が御言葉に従順して行う時、その御言葉が私の中に生きた御言葉となるでしょう。
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