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カインとアベル

創世記4:1-15

カインとアベル

アダムとエバは神様が作った人です。

この夫婦にはエデンの園のすべてが許されましたが、1つだけ禁止されました。 善悪の果実を食べるなということです。

しかし、突然どこかから現れた話す蛇が、この夫婦を誘惑します。

神様が禁止した実は「善と悪の知識の木の実」です。 実際に何かを食べるからといって知識が生まれるような果物はないですよね? したがって、これは一つの象徴といえます。

神はアダムとハワに、善と悪を自ら絶対的に決定するなと言ったのです。

その実を食べた瞬間、脱いだことを恥ずかしかったそうです。 つまり、神様の席に座ろうとした瞬間、自分たちがどれほどつまらない存在なのかを悟るようになったのです。


話す蛇はどこから来たのでしょうか。 もし、アダムとエバが善悪の果実を食べる前、つまり罪がこの世に入る前、この世に罪がなかったら、神の言葉を真っ向から否定するこの蛇はどこから来たのでしょうか? ここでの蛇は「ナハシュ」と言いますが、龍のような伝説の中の最後の仇を指す言葉でもあります。 いずれにせよ、このヘビは、神の命令の拒否に対する可能性、不純物の可能性を象徴していると言えます。 これは人間が神様に自由を許されたので、神様の命令と共に必然的に生じるものです。 聖書によると、人間だけが神の形に沿った理性と自由を持っているので、言葉を拒否する可能性があります。


神様は生命の木の実を食べ、永生しないように、人間をエデンから追い出しました。 「永生」は時間的な意味もありますが、ここでは、変化なく生きていくことに対する神様の憂慮と見れば良いです。 自然を搾取し、人間を搾取し、何より自ら罪に屈して自らを搾取して生きていくのに、変化がなくてはなりません。 「エデン」から追い出されるべきです。「エデン」という名称は「喜び」という意味です。 言い換えれば、もし私たちが自然を搾取し、他の人間を搾取し、自らを搾取するのに、喜びだけがあれば、その世界は正常ではありません。


アダムとエバの物語は、このように罪の本質を示しています。 罪は神の言葉ではなく、蛇の言葉に耳を傾け、現実に移すことです。 創世記3章で発見できる神様の言葉の一つは、善と悪の絶対的な決定をあえて人間自ら下すことができると傲慢にならないということです。

絶対的に善悪がわかるのは、神のみです。 いつも神様と人の前で私の行動、私の考えが絶対的に正しいという傲慢を捨て、私の過ちを振り返りながら祈る人生を生きることを願います。


カインとアベル

神様はなぜアベルの捧げ物を受け、カインの捧げ物は受けなかったのだろうか。

捧げ物の違いだったのでしょうか。

いいえ!聖書のレビ記という本を見れば、穀物でも神様に捧げ物を捧げることができました。

捧げ物の問題ではないということです。


4~5番を読み直してみよう。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

神様はアベルとカインの捧げ物を受ける時、 捧げ物以外に何を受けると出ていますか。

アベルと彼のいけにえ、カインと彼のいけにえだという。

神様は捧げ物ではなく、 捧げ物を差し上げるアベルとカインに注目しました。


では、礼拝とは何でしょうか?ミカ書 06章 6-8節

何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。


では、礼拝とは何でしょうか? 人々がいくら良い捧げ物を持ってきても、神様がそれを拒否します。

人間の悪行が神様が捧げ物を拒否させる原因だそうです。

正義を行わず、謙遜せずに生きていく中で捧げる捧げ物は!礼拝は!

神様の前で何の意味もないのです!


創世記4:7

神様は弟のアベルを殺したカインに脂っこい良い捧げ物より善良な人生を要求する。


詩編 15編 1-3節

神様に進む者! 神は礼拝者に何を要求しますか?

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。 それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり 舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。


神様が喜ぶ礼拝とは、神様を愛し、神様と同行し、神様が望む人生を生きる者たちです。

つまり正義を実践する人、心で真実を語る人、舌をからかって他人の過ちを暴かない人、友人に害を及ぼさない人、隣人を侮辱しない人が捧げる礼拝を神様が喜びます。


礼拝とは愛です。

ヨハネによる福音書 14編 15節 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。


しかし、神様がカインの捧げ物を受けなかったからといって、神様とカインの関係は途切れるわけではありません。 神様が私の礼拝を受けないからといって、私と神様の間は途切れない。

重要なのは神様に責められた後、悟った後にどう生きるかがより重要だ。

カインがしようとするなら善を行うことができるのです。

しかし、カインは善を行うことを選ぶことができませんでした。

彼の怒りは、自分をみすぼらしい弟アベルに向けられ、結局弟を殺しました。

比較意識は劣等感で表われ、劣等感はその対象者に怒りを注いでしまいます。

皆さん、私自身は誰とも比べ物にならない唯一無二の存在であることを覚えておいてください。

私たちは人生を生きながらミスをしたりもします。 失敗したりもします。

罪の誘惑に陥ったりもします。

神様が喜ばない人生を送ったりもします。

しかし、神様が注目することは、失敗しない人生ではありません。

間違っていることに気づいた時、どんな人生を選択するかです。

今日皆さんはどんな選択をしますか?

最高の選択をお祈りします。

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