どんな善いこと
- オークー
- 2024年5月19日
- 読了時間: 5分
ある青年がイエス様に駆けつけ、ひざまずいて尋ねます。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
イエス様はそのような彼を見て、どのような答えをされたのでしょうか?
「なぜ

私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに善い者は誰もいない」
善の基準は何でしょうか?
イエス様は、その善の基準は神にあると言われます。
神様は良い方です。
ですから、神様が造られたもの、神様が行なったことは、すべて善であり、美しく、良いものです。
神様が最初に世の中を創造された時、すべての自然、この世のすべての生き物、そしてここにいる皆さんもすべて善く、美しく創造されました。
ですから、人は誰でも美しい存在であるはずであり、誰でもスペシャルであるはずなのは、善い神様から出てくるものが善くて美しいものだからです。
しかし、世の中を生きていく中で、すべての人が善であったり、美しいとは思えません。
なぜでしょうか、それは自分が善の基準になっているからです。
神を引き出して自ら善と悪を判断する神になろうとしたアダムのように、自分が基準になって生きてきたからでしょう。
今日イエス様が列挙された十戒を見ると、イエス様は隣人愛に関する戒めだけを持って話されましたが、それは一つ戒めが他の戒めより重要だということではありません。
神様を愛するということは、すなわち隣人を愛することだからです。
パリサイ人は 、律法を守り区別された生き方で多くの人から尊敬されるようになりました。
しかし、パリサイ人は十戒の中に込められた神様の深い御心には気づかず、表面的な御心だけを守って行なっただけでした。
例えば、偶像崇拝をするなということを、ただ偶像を崇拝しないだけと簡単に守ったということです。
偶像礼拝をするなというのは、別の言葉で言えば、主、あなたの神を愛しなさいということです。
世の中のものを頼るのではなく、ローマ皇帝から与えられる権力などに依存してローマ皇帝の意のままに生きるのではなく、神を愛することで神の御旨のままに生きなさいという意味です。
イエス様は、律法を守ることが本当の意味で、何であるかをこう説明します。
「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」
しかし、青年はイエス様の言葉を聞いて悲しげな表情を浮かべ、悩みながら去っていきます。
この青年が悲しそうな顔をして心配している理由は所有する財産が多いからです。
財産は彼が今まで大事にしていたものであり、頼りにしていたもので、掛け替えのないものです。
また、当時は「多くの富」は「神の祝福」という意味があり、その意味は「永遠の命」を象徴していました。
ところが、イエス様はその富と権力を捨てなさいと言います。別の言い方をすれば、それに依存するなということです。
それがまるで自分自身であるかのように錯覚してはいけないということです。
しかし、青年はイエスの言葉通りにすることができませんでした。
その言葉を認めると、今まで自分が正しいと思っていたことを否定しなければならないからです。
つまり自分を否定しなければならないのです。
今までお金と名誉、権力という仮面をかぶって生きてきた彼が仮面を外したとき、彼は素顔の自分と向き合うことができるのでしょうか。
しかし、彼があれほど求めた救いは、自分の本当の姿に向き合うことから始まるのです。
自分が頼っていたもの、自分が執着していたもの、自分自身を支えてくれたもの、これだけは手放せないという財産を下ろすことが「自己否定」です。
神の律法を完全に守ることで永遠のいのちを得ようとする者は、いつも救いについて恐れるようになります。
なぜなら、十戒の前では誰でも不足した者、不十分な者になってしまうからです。
ただ善を行うことで救いを得ることができると考え、永遠の命に至るために努力しますが、いつも不安になる理由は、律法を守ろうとすればするほど、自分の弱さ、自分の悪さが明らかになるだけだからです。
このような自分は天国にふさわしくないと思うからです。
しかし、この青年が大きく見落としていることがあります。
それは、律法は救いの目的にはなり得ないということです。
しかし、律法を守ることによって、あるいは良いことをすることによって救いを得るのではありません。
すでに前提からが間違っているのです。
むしろ律法は救われた人が守るものです。
救いは自己否定から始まります。
自己否定とは、仮面を脱ぐことです。 仮面を脱ぐということは、死を意味することでもあります。
しかし、死ぬことが目的ではありません。 再び生きるために死ななければなりません。
堕落した古い人が死んでこそ、新しい人として生きることができます。
罪に対して死ぬことで、罪深い欲求に従って生きるのではなく、聖霊が喜ばれる御心に従って生きることができます。
例えるとこんなエピソードがあります。
サランちゃんが今よりもっと小さい頃、一人ではご飯を食べられませんでした。
ところが、サランちゃんがスプーンを逆に持ってご飯を食べようとするのです。 当然、ご飯が口に入ることができませんでした。 それで、ご飯を食べさせようとスプーンを取ってあげると、怒ります。自分の手に握ったスプーンを離さないとご飯が食べられないのに、絶対にスプーンを離さないようにします。
神様は私たちのものを奪う方でもなく、私たちを利用して自分の腹を満たす方でもありません。
私の愛がスプーンを奪ってどうなるのでしょうか!
私たちが持っているものを下ろせと言われたとき、まるで私のすべてを奪われるように聞こえるかも知れませんが
そのスプーンにご飯とおかずを乗せて子どもを食べさせようとする両親のように
イエス様は私たちに最も良いものを与えるために、食べることもできない間違った欲望、偽りの欲望を捨てなさいと言われたのでした。
Commenti