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この人がしたこと


イエスが自分の死について語るときは、大祭司たちと長老たちは大祭司の家に集まって話し合いをしていることについて話し始めます。

26章4節 イエスを捕まえて殺す計画を立てています。


大祭司と長老たちは神の計画とみことばを教えることで、イスラエルの民を導いていくべき指導者という役割をしていました。

誰よりもイエス様が神様であることを知っていなければなりませんでした。

それなのに、彼らはむしろイエス様を殺そうとします。

しかし、民乱が起こることを恐れて、すぐには実行できませんでした。


民を正しい道に導かなければならない指導者たちが最も恐れるべき存在は、人ではなく神でなければなりませんでした。

彼らは自分の富と名誉と権威を失うことを恐れているのではなく、この地に自分たちを救うために来られた神様を殺してまで欲望にとらわれた自分を恐れていたのです。


どんなに宗教家でも、どんなに宗教指導者であっても、生きておられる神様を体験する人生がなければ神と交わる時間を一度も持てないので、自分の生活の中でみことばを植える生活を送ることができなければ、その時間が積み重なっていくと宗教的な行為だけが残る空っぽの殻のような人生を送ることになります。


ある女性が非常に高価な香油をイエスの頭に注ぐ場面があります。

ベタニアは、貧しい者の地、悲しみの地と呼ばれる場所です。

そこは律法で不浄とされる病を持つ者、売春婦、貧しい者たちが住んでいた場所です。

そんなところに住んでいた一人の女がイエス様の元へ訪れ、 自分のすべてとも言える香油をイエス様の頭に注ぎました。

大切な客に一滴、二滴の香油をつけることはできます。

その意味は、あなたは私にとって貴重な存在だという表現です。

しかし、この女性は自分の全てをイエス様に注ぎました。


女性が持っていた香油はお金に換算すると300デナリオン程度になります。

300デナリオンは、その当時で労働者の1年分の給料になります。

彼女が持っていた香油は高級香油であり、一日稼いで一日生きるのも大変だった時代、この女性にとってその香油がどのような意味を持っていたのか?

香油はこの女性のすべてでした。

一滴一滴の香油には、痛みと喜び、喜びと苦しみはもちろん、未来への糧のような夢が込められているのです。

しかし、この女性は自分のすべてのような香油をイエス様に注ぎました。

それはなぜでしょうか?

おそらく、この香油のすべてをイエス様に注いでも惜しくないほど、イエス様を愛していたからでしょう。


今日、この女性のように、私たちも神様を熱く愛してほしいと思います。

みなさんのすべてを捧げても惜しくないと思うほど、そのような愛し方をしてほしいと思います。


周りがこの女性を非難するとき、イエス様はこの女性がしたことは、主の福音を証しされるところならどこでも通じると言います。

福音とは何かというと、いろいろな意見がでてきますが、結局は愛だと思います。

この女性がイエス様を愛して自分のすべてを注いだように、福音はキリストが人を愛して自分のすべてを注いだのと同じであり、そのようなキリストに従うすべてのクリスチャンも自分のすべてをキリストに注ぐことと同じです。


すべてを捧げられなければ、愛とは言えません。

私のすべてを捧げるということは、失うということではありません。

むしろ溢れるほど満たされます。

私のすべてを捧げられることは、私のすべてよりもっと価値のあるものを神様が与えてくださったからこそ可能なのです。

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