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WHAT->HOW

ヨハネによる福音書9:1-12

主題 WHAT->HOW

1.背景


この事件は、仮庵祭、陽暦の7月中旬、すなわち太陽暦の半ばに起きた事件だが、

もちろん雨一滴降らない乾季に当たる季節だ。


2. 盲人に対する当時の社会認識


1) 当時の障害に対する人々の見方


8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、

  「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

「当時、目の見えない人々の暮らしの質がどれほどひどかったかを暗示している。"

「障害者たちが大部分社会で保護を受けることができず、厳しい生活をしていたことが分かる。"

「ハンセン病患者、盲人、肢体の自由でない人々は聖殿の中に入ることができず、

 聖殿の外で物乞いをしながら悲惨な生活を送った。

 2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、

だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」


  「ユダヤ人は病気や苦難、死の原因を罪の結果と見た」


3. イエス様の反応

1) 盲人に接するイエス様の視線

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた


この時「 見かけられた」という単語は意図的に体を向けて見たという意味である。


2) 盲人に対するイエスの見方

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。

神の業がこの人に現れるためである

断固たる答えだ。 直訳すると「この人は罪を犯していない。

彼の両親も罪を犯さなかった。むしろ 神の業がこの人に現れるためである。"

イエスは病気の原因を罪とサタンの影響とはみなさない。


(a) 因果応報で説明のつかない苦難

ヨブ記

 1:1 ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた

2:3 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。

無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して

彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」


「ヨブは神様に認められた人だった。しかし彼はすべての財産を失い、子供たちがみな死んでしまった。ヨブの友達はヨブに最も近い存在だったが、彼らはヨブの苦難を説明しようとする。

しかし、神はヨブの友達が間違ったと言う。 原因があるからこそ、必ずしも結果があるわけではないこともあるからだ。 人生の出来事については説明できないこともある.

知らないことは知らないことにしておいていい。 それでいい」。


(b) 解釈できない苦難

詩編42:10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、

わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」

詩編 90:13 主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。

あなたの僕らを力づけてください。


「なぜなのか尋ねるが、実は誰も答えられない」


4. イエス様がこの地に来られた目的

1) 働くためである

4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。

だれも働くことのできない夜が来る。

日のあるうちにそれは働く時だということだ」


2) どんな働きをするためなのか。

5 わたしは、世にいる間、世の光である。」


「この世の光であるイエスは闇の中で生きてる人々に光を照らし続ける。"


(a) 光を照らす事とは何か


6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

「神の業を行うのだ。疎外された人の友になってあげることだ。 苦痛を分かち合うことだ。

 神にかたどって創造された尊厳な人間であることを悟らせることである」。


(b) 我が人生の目的

マタイによる福音書 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

「イエスがこの地で光で生きていたように、 私たちも光で生きていくのである。」


5. イエス様の治癒

  1) 治癒の理由


6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。

そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

「イエスは何の条件もつけずに、彼の眼を癒してくださる」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。

神の業がこの人に現れるためである


 " 神の業がこの人に現れるためである"


2) しるし

6 イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

創世記2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

      その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。


  「 塵で作って人を創造した神様を想起させる。」

7 シロアム――


" 遣わされた者という意味のシロアム――は、シロアム――がイエスであるということを表し、

  彼が神様が送ってくれたキリストであることを暗示したりもする」。」

6. 人々の反応

8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、

「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、

「わたしがそうなのです」と言った。

10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』

と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」


「 近所の人々 といっても、彼らは喜ばない。


まとめ

* 病気と苦難、不幸と死が罪の結果だと一般化させてはならない。

* WHATではなくHOWでなければならない。

病気や苦難、不幸や死を繰り返している彼に、または自分に必要なのはWHATではなくHOWだ。

我は理解し難い苦難の前に我はどうすべきか?

その質問の前に立った時に我々は前に進むことができる。。

* 私たちの人生の目的はイエス様のように照らすことだ。

 神様と断絶された人は人との関係で寂しさを感じ、人生の意味を探すが虚しさを感じる。


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