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主の祈り


マタイによる福音書 6:9−13



序論

皆さん、祈りは力です。

クリスチャンとして生き抜く力です。

その力には敵を愛する力があります。

「 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。マタイ5:44」

イエス様が教えてくださった祈りは、私を愛する人や私の兄弟のためだけではありません。

イエス様は十字架から水と血を全て流しながらも、自分を十字架につけた人々のために祈りました。

〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」 ルカ23:34"


祈りの目的は神様の御旨通りに生きるためです。

私が愛していない人を愛するためです。

私が赦せない人を赦すためです。

神様の御言葉とおりに生きるために祈るのです。


イエス様がだから、こう祈りなさい。とおっしゃったことは、単に祈りの文を暗唱しなさいということではありません。

祈りを暗唱することに力があるわけではありません。

この通りに生きなさい! 生き抜きなさいと言うことです。

イエス様は自分の人生を私たちに祈りでくださいました。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

マルコ8:34

つまり、生き抜く人生の告白が本質的な祈りであり、そのように生きようともがくのが私たちの祈りでなければなりません。


1. 天におられるわたしたちの父よ

イエス様は私たちに神様を父と呼ぶように教えました。

イエス様が弟子たちに最も知らせたかった祈りは、神様との関係です。

その関係は父と子の関係です。

 神様は私たちを創造し、私たちを保護し、私たちに必要なものを用意して下さいます。

しかし、親の愛には私たちがよく忘れるもう一つの要素があります。

それは犠牲です。

親は子供のために死ぬまで何の代価もなく犠牲になる存在です。


そして神様は私たちのために十字架につけられて死にました。

私たちを生かすために私たちを守るために私たちの代わりに死にました。

私たちが神様の子であるからです。

イエス様は祈る時、私の父ではなく私たちの父として祈るようにと言いました。

「私たち」には主日ごとに出席する教会の兄弟、姉妹がいます。

しかし出席する教会だけではありません。 他の多くの教会も含まれます。

そして他の多くの教会だけではありません。

私たちのように神様を父と呼びながら祈る全世界の数多くの教会も私たちです。

神様を父と呼ぶすべてのキリスト人が私たちであります。


2. 御名が崇められますように。

ところで、神様はもう清いではないですか。

私たちが神様をもっと清くすることができるということでしょうか。

いいえ!それはできません。 人は神様をもっと清くすることができません。

マタイ福音書5章16節

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

神様の名前を清くするということは、私たちの人生を通じて神様が清いお方だということを表わすことを意味するものです。


実際の人生を生きていくことです。

御名が崇められますようには私たちの人生を通じて神様を認めることです。

イスラエルはこの部分で失敗しました。

イスラエルの指導者たちと祭司たちは神様を信じると言いましたが、彼らは神様を利用して自分の利益を得ました。


エゼキエル書22:26

祭司たちはわたしの律法を犯し、わたしの聖なるものを汚した。彼らは聖と俗とを区別せず、浄と汚れの区別を教えず、わたしの安息日に目を覆った。こうして、わたしは彼らの間で汚されている。

清い神様がイスラエルの民に冒涜されました。

当時の祭司たちは民に礼拝をきちんと教えませんでした。

そして彼らさえも神様に完全な礼拝をささげませんでした。

それで神様を恐れ敬うことができず、心にもない礼拝を捧げるだけでした。

彼らは神様の心に相応しい人生を生きることもなく、生きようとする心さえありませんでした。

その結果、お互いを愛するより、お互いを搾取して自分の利益を得ようとする人々でいっぱいになってしまいました。

マタイ5:16

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

神の国の民がこの地での人生の目標はまさにこれです。

立派な行いを通じて父に栄光を捧げることです。

神の民がどのように生きるかによって神の名を崇めることもでき冒涜することもできるのです。

私たちを通じて神様の名前が崇められることを願っています。

私たちの人生を通じて私たちの教会を通じてこの地に神様の恵みが現れることを願います。

神様の名前が世の中で栄光を受けることを願います。

神様が訪れる神の民は、このような祈りを捧げる者たちであります。


3. 御国が来ますように

神様の国について話す時、私たちはその国を将来臨む国、臨むことを期待する国ではなく、まるで私たちが死んでこそ行く国であるかのように話す時が多いです。

しかし、神様が教えてくださった祈りにはこのように記録されています。 御国が来ますように

これはイエス様が約束されたように、この地に臨む神の国は後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。抑圧された人が自由になり、不義と搾取の代わりに厚意と愛がある新しい国です。


教会の最も重要な使命は、この地で神の国を表わし、神の国のために祈ることです。

それが私たちがイエス·キリストに従う人生です。

神の国は神様の愛と御旨があらわれるところであれば、どこでもその国を見ることができます。

愛が現れ、愛が憎悪と悪に勝つ場所なら、どこでもその国を体験することができます。

長く古い恨みが許されるところで神の国を見ることができます。

人々を引き離す障壁が崩れる時、神の国を見ることができます。

テロや貧困から離れてきた人々が歓迎されるところで神の国を見ることができます。

イエス様の使命が現実になるところ、貧しい人に良い知らせが宣布されるところ、閉じ込められた人が解放されるところ、目のくらんだ人が視力を取り戻すところで神様の国を見ることができます。

したがって、 御国が来ますようにと祈る人は壁を崩し、仇を赦し、世の中で疎外、抑圧を受ける人たちが自由を得させ、圧制を受ける人を解放させる気持ちで祈らなければなりません。

こうする時、私たちは神の国を宣布することであり、神の国を成す人生を生きることです。


それなら神様の御旨通りにどう生きていけますか?

私たちがこの地で神様の民として神様の国を成していく人生を生きていけるように神様は私たちに聖霊様を送ってくださいました。

聖霊様は私たちに御言葉通り生きていく力をくださり、力を下さいます。

聖霊を受けたということは何でしょうか。 聖霊で満たされるということは何でしょうか。

神様はアダムを神様の呼吸で創造しました。

創世記2:7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

だから、初めて聖霊に満たされた人はアダムでした。

アダムの意味は「人」です。 「聖霊に満たされる」という意味は「人らしい」という意味になります。

一番人らしい人、その人がアダムで、聖霊に満たされた人という意味です。

それは何の意味でしょうか。 聖霊を受けた人とはキリストの中で自分の価値を悟り、与えられた人生を価値あるものとして生きていく人という意味です。

聖霊に満たされるとは感情充満ではありません。

神様の御旨通りに生きていく力です。


4.御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

神様の御旨とは何ですか。

周りの人と愛し合って生きることが神様の御心です。

だから私と親しい人だけでなく、私の気にさわる人、私が憎む人のためにも祈らなければなりません。

私を苦しめるその人を愛することができるようにと祈ることが神様の御旨を成し遂げるための祈りです。

また、私の周りの人たちが神様の元に回復するのも神様の御旨です。

また、私たちは苦痛の中にいる人々のために祈るのも神様の御旨です。

イエス様はあなたたちは世の中の光と塩だとおっしゃいました。

天国の塩でも天国の光でもないこの世の光と塩です。


マタイ5:13-16

イエス様はこの世で私たちがどのように生きるべきかをおっしゃってくださったのです。

光と塩で生きる人生とは、隠された存在を表す光で生きることです。

雪を溶かす塩、畑の肥料として撒かれる塩、食べ物の味を出す塩として、

私たちはそのように世の中を照らし、世の中に撒かれて神様の御旨を成す人生を生きることです。

したがって、祈りは祈りに終わることはありません。

祈りは私たちが方向を失わないように私たちを悟らせる神様の御声です。

祈りは私たちを起こす神様の両手です。

祈りは私たちが生きていく原動力です。


5. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

主が 必要な糧をくださいましたが、「私の」ではなく「私たちの」必要する糧をです。

私のための糧を求めるのではなく、私たち皆の糧のために私たちは祈ります。

この祈りは利己的な心を脱して隣人を振り返らせます。


今日私たちに 必要な糧を今日与えてくださいと祈る時、自分の人生だけに関心を持っていた人々が隣人に関心を持ち始めます。そこで心が開かれ, 世の中と社会的な弱者にまで関心を持つようになります。そして究極的には神様が作った世界全般に関心を持つようになるでしょう。

これがわたしたちに必要な糧を今日与えてくださいと求めて祈る民に現れる姿です。


この祈りはまた偉大な祈りです。 この地の神の国の民が世の中を変えて、尊く生きていくと決断する祈りだからです。

クリスチャンたちが心からこの祈りをささげ始めたら、その人生は変わるしかありません。

教会自体が変わるしかありません。 このように変化した教会は世の中を変化させるしかありません。

最後に主の祈りは祈りであるだけでなく約束でもあります。

「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と言う時、 我々は自分に必要な分量より多くある時は、他の人と分かち合うことを約束することです。

十分に持てない人がもう少し持てるように、私ができる限りのことを全てすることを約束することです。

このように必要な糧を分ける時、神様の名前が崇められるようになります。


6. わたしたちの負い目を赦してください、

わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。

神様がおっしゃったので、赦しを請うべきだからといって赦されるわけではありません。

赦しは簡単ではありません。

それで私は私たちの信仰について私たちがもう少し率直になってほしいです。

私たちは機械ではありません。

赦しを請われても赦せないこともあります。

だから赦すためには赦せなくてもがく過程が必要なのです。

そして、その最後に私の力でできることではない、神様に与えられた恵でなければ赦すことはできないということを悟る恵がなければなりません。


神様が私たちに望むことはできるなら、すべての人と和平することです。

私たちが赦された人としてすべての関係で赦し、和平となる人生を生きる時、それがクリスチャンのしるしになります。 過ちをする時や傷も与える時もありますが、お互いを赦し、また赦される姿がクリスチャンとして現れなければならない姿です。


忘れないでください。キリスト教は愛の宗教であり、赦しの宗教です。

この赦しは、私たちが一生持続的に繰り返さなければならないことです。

神様の平和が世の中であらわれるまで、私たちは休まずに祈らなければなりません。

そして、この赦しに先立って忘れてはならない事実は、神様の赦しと愛は

いつも私たちの罪より大きいということです。

この恵に頼って愛し、赦しの人生で満たされた私たちになることを祈ります。


7. わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

この祈りはその誘惑に陥らないようにしてほしいという祈りです。

しかし、人生を生きるなら誘惑を受けざるを得ません。

私たちは死ぬまで多くの誘惑に向き合うことになるでしょう。


私たちを攻撃するサタンの戦略は非常に伝統的です。

1. 私たちの生存方式に対して不安を助長する。

2. 私たちの関係を破る。 私たちの言葉と行動で人々の間にわだかまりを作る。

3. 私たちが持っている弱さを攻撃する。

人によって違いますが、誰もが弱い部分があります。

主にお金と名誉、権力、快楽などで誘惑されています。

誘惑の最大の危険は私は誘惑に倒れないという錯覚です。

私も誘惑に陥ってしまうことを知って、それに備えて祈る人だけが誘惑から避けることができます。

私たちは常に誘惑にさらされていますが、その誘惑が私の心の中に入ってきて生まれることを防ぐことができなければなりません。


また、この祈りもやはり私の祈りではなく私たちの祈りです。

私が誘惑に陥らないように祈るだけでなく、私たちの共同体を誘惑に遭わせず、悪い者から救ってくださいと祈るのです。


聖書では霊的戦闘をよく説明する本文があります。

ペトロ第一書 5:9

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。

ヤコブ書 4:7

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

「対抗して戦いなさい」と「反抗しなさい」はギリシア語で同じ単語です。

英語聖書では「これに抵抗してください」と翻訳しています。 ところが、霊的戦闘に条件があります。

ペトロ第一書は 信仰にしっかり踏みとどまってと、ヤコブ書は神に服従し、悪魔に反抗しなさいと言います。

この戦いは私たちが戦う戦いではないということです。 この戦いは神様次第の戦いということです。

したがって、私たちが悪に抵抗するということは、信仰に固く立って神様に服従することです。

もう一度言います。 誘惑で私たちが勝利できる秘訣は神様の御言葉を信頼することです。

神様を信じて主の御言葉に従うことで勝利するのです。


8. 新改訳 〔國と力と榮えは,とこしえにあなたのものだからです.ア-メン 〕

国とは?

神様が王様で治める国、神の国です。

力とは?力です。

神様がその国を治めて維持し、その民を福にする力です。

榮えとは?

すべての被造物がイエス·キリストを神様と告白することが神様に捧げる栄光です。


私たちは、目に見えない神の国より世の中の国のほうがもっと力があるように見えます。

そして私たちに多くの影響を与えています。

そして世の中が私たちの必要を満たしてくれて、私たちの渇きを解決してくれるように見えます。

それでもすべての國と力と榮えはが神様にあると私たちは告白します。

なぜなら、世の中の力、世の中の栄光は一瞬だということを知っているからです。

ただ永遠の国、永遠の力、永遠の栄光は神様にあるということを知っているからです。

國と力と榮えは永遠だということを信じるからです。


最後の祈りを終えて、私たちはアーメンをします。

アーメンとは?

1)アーメンは私たちが今、主に求めることが確実に叶うと信じていますという

祈りの答えに対する確信です。

2)アーメンは私たちが祈る通りに叶うと信じていますという宣言です。

3)アーメンは私もそう思います。 その言葉は果たして正しいです。 と同意の印でもあります。

4)アーメンはそれが真実であることを強調する意味を持つこともあります。

5) 詩編を見てみましょう。

詩篇106編48節はこのように言います。

イスラエルの神、主をたたえよ/世々とこしえに。民は皆、アーメンと答えよ。ハレルヤ。

献身して忠誠するという決断と告白です。

皆さん、アーメンという言葉をどれだけたくさん言うのか、どれだけ大きく言うのか、

どれだけ繰り返し言うのかが重要ではありません。

アーメンは信頼の告白です。 おっしゃる通り生きるという決断だからです。

ですから、神様が教えてくださったこの祈りを終えながら、私たちはアーメンを大きく

しなければなりません。

讃美の中で、御言葉の中で本当に皆さんに心の中で同意できれば、喜んで御言葉通り生きるという決断を持って皆さんアーメンしてください。


私たちがこの祈りを終え、真心を尽くして大声で皆でアーメンを叫ぶ度に、実は私たちはこのように告白し宣言するのです。

まさにそうですね。 神様は天におられる私の父です。 神様の名前は清いです。 必ず崇められなければなりません。 神の国はこの地に臨み、神の御心が行わればなりません。 父が私たちがこの地で生きるのに必要な糧を与え、私たちの罪と負い目を解決する方が父であり、私たちを悪から救う方です。 〔國と力と榮えは,とこしえにあなたのものです〕

これが私たちが共同体として神様に捧げる告白であり、世の中に向けた宣言であり、私たち自身に向けた決断です。

自動的に口から出る言語習慣ではなく、心を吐き出す真剣さと中心から出る告白と意志の決断として与えられるアーメンにならなければなりません。


アーメンは唇でやるものですが、唇で止まってはいけません。

ローマ10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

ヤコブ2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。


人々は祈りが何も変えることができないと思います。

祈るからといって人が変わらないと、祈りで教会を新しくすることはできないと言います。

世の中を変えるのに祈りは無力だと言います。

しかし、主の祈りは人を変えます。

主の祈りは教会を蘇らせます。

主の祈りは壊れて、傷んだこの世を回復させる力を発揮します。

毎朝主の祈りで1日を始め、毎晩主の祈りで1日を終えてください。

時間を作って主の祈りで祈ってください。 もう私たちの祈りが変わることを願います。

私と家庭と教会を越えて、この国に臨む神の国を願いながら祈りましょう。

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