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バベル塔

バベル塔

創世記11章1-9


私は日本で環境情報ビジネス学科を専攻しましたが、歴史が好きで言語の起源という科目を申請しました。

その授業内容が印象深くて今も覚えている。

例えば、s.v.o主語、動詞。目的語 I like an apple s.o.v主語目的語動詞v.s.o動詞主語目的語

同じ語順をがつながってさかのぼれば言語の始まりになる3人が登場します。

私が驚いたのは、その3人が聖書に登場する人々だったということです。

創世記6章10節

その3人はノアの息子セムとハムとヤフェトだ。

世の中に大きな洪水があり、その時生き残った人はノアとノアの息子セム、ハム、ヤフェト、そしてセムとハムとヤフェの妻たちでした。

言語学でもセムとハムワ·ヤフェトの共同体が大きくなり、一緒にいるには土地が狭く移動したそうです。


今日のバベル塔の話はその後の話だ。

その時は言語が一つだった。

そして彼らはレンガを作り、そのレンガで城邑と塔を築いた。



バベル塔を築く理由は何だったのだろうか。

神は二度とすべての生物を洪水で滅ぼさないと約束した。

口先だけではなかった。 虹を見て、あの虹が神様の約束の証拠だとおっしゃった。

この約束は永遠の約束だ。

ところが、彼らは二度と滅亡しないために自らを守るためにバベル塔を築いたのだ。

では、なぜ高い塔は築こうとしたのだろうか。

古代近東の人々は神様が世の中を作ったから世の中の外には神様がいらっしゃると信じた

それで塔のてっぺんの空に着くまで建て、その上に上がれば神様のような存在になると考えたのだ。



神様はそのような人々を見下ろしてみると、7節のように言った。

7節 言語を混雑させることをヘブライ語で「ナブラ」 混乱という。

そして、ナブラの原型の意味は愚かだという意味だ。


聖書が言おうとしているのは「バベルの塔を建てるのはどんなに愚かなことか」ということだ

人々は神に立ち向かうために塔を高く築いた。

学者たちはバベルの塔を「ジッグラト神殿」と言う。

ジッグラトは高さ50メートル、12階建ての建物くらいの高さだ。

今でも高い建築物はその国の力を象徴している。

バベル塔を建てて高い塔を築き、その塔に上がった王または祭祀長を数千人の人々が眺めながら権力を持つようになる。 権力者を作る空間構造だ」(11:4)


しかし、神様に届くほど高く積み上げたと思ったバベル塔は、むしろ神様がしばらく降りてこなければ見られないほど、その塔はつまらない塔だった。(11:5)


人々は神に会うために宗教的な行為をする。

しかし、神様は私たちの努力で会える方ではない。

神様が私たちに自分を見せなければならない。

人は神という存在を知ることができない。 見たこともなく、触ったこともないからだ。

そのため、私たちが神様を知るためには、神様が自分を私たちに示さなければならない。

神は人の限界を知った。 いくら努力しても神様に届かないということが分かった。

そのため、神様は私たちを訪ねてきて自分を表わした。

そして今日の聖書を通じて神様自身を私たちに知らせてくれる。


人間は絶えず神に逆らって神に対抗して神になろうとする努力をあきらめなかった。

人の上に君臨しようとして高くなろうとする。

しかし、私たちが似ていかなければならないイエス様はどんな方でしたか。

フィリピ2:6-8しかしイエスは神様と同等であることを取らずに自分を低くして自分が創造した被造物を救うために喜んで死んだ。 また、神様の言葉の従順さで自分を表さずに神様を表わし、神様を高める人生を送った。

人は高くなるために高い塔を築き、上に上がろうとしたが、イエスは上から下に来られた。

私たちが見習うべき姿は、このように自分自身を低くする人生を生きることだ。

世の中の法則は低い人が高い人に、弱い人が強い人に、小さい人が大きい人に仕えることだ。


自分を高くする者は低くなり、自分を低くする者は高くなるだろうと言う(気後れ18:14)

イエス様の教えは世の中が語る成功とは違う。 成功のパラドックス逆襲のことをおっしゃる。

イエス様がおっしゃる成功のparadoxは理想的な話ではない。


シュバイツァー博士がアフリカで自分より弱く無力なアフリカ人に仕える間、彼の祖国ドイツでは何度も首相が変わった。 ドイツの首相は多くの人々から尊敬敬礼を受けることができるが、世界の人々はその首相たちの名前をすべて覚えていない。 その反面、いくら歳月が経ってもシュバイツァーは知っている。


主はあなたに、あなたが本当に大きくて素晴らしい人になりたいなら(偉人に仕え、人の種になれと言う。

大きくて強い人になって誰かを支配する人ではなく、主がされたように私より小さくて弱い人に仕える者になれと言う。 これが人間らしく生きることだ。


イエスは人間の能力を超えた強力な力でこの世を征服しに来られたのではない。

力で人々を支配しようと来たのではない。

それは神の方法ではない。

イエス様がこの地に来られた目的は仕えるためだった。


今日、私たちに与えられた一週間、私たちの中に積まれている数多くのバベル塔が崩れることを祈ります。 今日も誰かに仕えるその場にいらっしゃる神様に会う私と皆さんになることを祈ります。

高くなって支配する人ではなく低くなって仕える人になることを願います。


祈ります。

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