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出会い




今日もペテロはいつものように網を降ろしました。

ところが、 ペテロもうまくいかなかったようです。

魚が一匹も釣れなかったのです。

そんなペテロに、イエスはこう言います。

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」


イエスの命令にペテロはどう答えたのでしょうか?

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」


シモン・ペテロがイエスの言葉に従うのは簡単だったでしょうか?

いいえ、決してそうではなかったでしょう。

その理由は、ペトロの職業が漁師だったからです。

少なくとも魚を獲ることに関しては、彼は専門分野だったということです。


ところが、ペテロはこう答えます。

「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」


イエス様の考えと自分の考えが違っても、自分の頭では到底理解できないとしても

ペテロは、イエスが言うなら、従順に網を降ろすと言います。

そして6節驚くべきことが起こりました。

そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

イエスの言葉に従ったペテロは、自分の知識と経験、そしてすべての常識が覆される経験をしたのです。

今日、ペテロがイエス様の御言葉に従った時、驚くべき奇跡を体験することができました。


一日中、網を下ろしても何も獲れず、疲れていたペテロに、イエス様が近づきました。

心も体も疲れていたその日、ペテロはイエス様の言葉に従いました。

わらでもつかみたい心境だったのでしょうか。

イエスに従うということは、イエスのすべてを私たちは受け入れることです。

それをペテロはすべてを捨てて主を従うことで表しているのです。

ペトロのような奇跡はなかなか起こりません。

だからといって奇跡がないわけではありません。

もしかしたら、私たちは数多くの奇跡を経験しているにもかかわらず、もはや慣れすぎて奇跡を奇跡として受け止められなくなっているのではないでしょうか。

まるで当たり前のように思っているからこそ、私たちの人生には、まるで奇跡がないと考えているのではないでしょうか。


また、私たちは奇跡を体験すると、その奇跡だけに注目しがちです。

そして、その奇跡への感動が終わると、また別の奇跡を求めます。

一度も経験したことのない驚くべき神秘的な奇跡、あるいは今目の前の問題を奇跡のように解決できる奇跡を。


8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

ペテロは突然ひざまずき、自分を罪人だと告白します。

山のような魚を見ながら、ペテロは魚ではなく、罪深い自分を見ました。

皆さん、イエス様の限りない恵みに直面すると、自分自身の罪を見ることができます。

私がどれほど利己的で、どれほど救いようのない者であるか。自分がどれほど傲慢で、どれほど多くの人を傷つけたか...。

イエス様の恵みを体験すれば、ただただ喜ぶかと思いましたが、 むしろイエス様の恵みに出会うと、私の中の罪に直面することになったのです。

皆さん、これが恵みではないでしょうか?

皆さん、これが奇跡ではないでしょうか?


恵みとは

真に自分の本質に向き合うことで、ようやく真にイエス様の前にひざまずくことができるようになることです。

私たちはこれを悔い改めとも言います。


そして、ペテロはその時からイエス様を呼ぶ呼び名が変わりました。

奇跡を体験する前の5節では「先生」と呼んでいます。

ペテロにとって、イエス様はラビのような教える先生程度でした。

しかし、奇跡を体験したペテロは8節でこう呼び始めます。

「主よ」

「主よ」という告白は、あなたは私の主であるという告白です。

別の言い方をすれば、「私は主のものです」という告白です。

皆さん、クリスチャンとはこの告白の上に建てられた存在です。


今、ペテロの人生の中心が変わりました。

本当の恵みは、神様の奇跡を体験した時、その奇跡に注目することではなく

その奇跡を起こされた神様に注目することです。

ペテロにとって魚がたくさん釣られた事件は、イエス様の前で自分の持っている知識と経験がどれほど無意味なものであるかを悟らせる出来事でした。 これが恵みです。

ペテロはイエス様に自分から離れてほしいとまで言います。

それはなぜ?

8節 罪人だからです。

聖なる神の前に自分のすべての罪が明らかになるのが恥ずかしくて怖かったのです。

そのように恐れて震えているペテロに、イエス様はこう言われます。

「恐れるな」

そしてこう言われます。

イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 (マルコ1:17)


FISHERS OF(FOR) PEOPLE ギリシャ語の原語を見ると、「漁師」に相当する単語が、時には「魚たち」と訳されることもあります。

そうすると、人を釣る漁師ではなく、「人のための魚たち」という翻訳になります。

そうすると、弟子とは、世の中に出て、「人を生かす命のパン」のような(人のための)魚になるということです。

イエス様はペテロに、私に従うということは、あなたが注目すべきものがあることを教えてくださいます。

それは「人」です。

神様がこの世に来られ、十字架で死なれた理由も、人を救うためでした。

そうしてイエス様は人を救うために、喜んでパンとぶどう酒になりました。

そして、イエス様は人を救うために、私たちに喜んで魚になれと言われるのです。


この言葉を聞いた船にいたペテロとヤコブ、ヨハネ、はイエスに従っていきます。

自分たちの船と網をすべて捨てて、イエス様を従います。

イエス様のためにすべてを捨てたということは、自分たちの生計のためだけに生きてきた人生の境界線を超えることです。

だからといって、自分たちの生計のための労働の価値が重要ではないということではありません。

自分たちだけのための生計よりも、人を取ること、つまり人を救うことがもっと大きな価値だということです。


今日、私たちは礼拝を通してイエス様との出会いを期待していますか?

イエス様とのこの出会いが、ペテロ一人の変化ではなく、私と皆さんの変化になることを願っています。

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