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パン五つと魚二匹

更新日:2022年3月5日


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ヨハネによる福音書6章1-15節  

1.背景

ティベリアス湖の向こうベトサイダという町

ヨハネ6:1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。

ルカ9:10 使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。

イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。


2.大勢の群衆にたいするイエス様の視線


1) 大勢の群衆

(1)何人だったかな?

マタイ14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

男が五千人ほど, 女と子供を合わせると約2万人くらい


(2)大勢の群衆の熱心

マルコ6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、

        すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。


(3)大勢の群衆が従う理由

ヨハネ6:2 大勢の群衆が後を追った。

イエスが病人たちになさったしるしを見たからである

  *ヨハネ6:2b イエスが病人たちになさった (ἐποίει)

しるしを見たからである (ἐθεώρουν)

  過去の反復動作を示す未完了時制を反映した2節の翻訳

  「 大勢の群衆が後を追った。 これは、彼らがその方が病人に対して継続的に

行っていた(未完了)仕事を見続けた(未完了)からだ」

2)イエス様の視線、そして反応

マルコ6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない

羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

マタイ14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、

        その中の病人をいやされた。


(1)イエス様が自任された「羊飼い」とは何か。

古代の近東では羊飼いは指導者を称する一般的な単語だった。

指導者は何よりも自分が治める民の安定と平安を優先しなければならない。

一国の大統領、一国の首相は自分が治める期間中、国民のために最善を尽くす。

尽くさなければならない。 その場は犠牲の場であり、仕える場だからだ。

 このような背景で、イエス様も自分の羊たちのために、自分の命まで捧げたのだ。

(2)羊飼いのいない羊とは何か。

神は指導者たちに自分の羊の群れを任せた。

しかし、羊を保護しなければならない責任を持つ牧者たちが、むしろ羊の群れを食べ、

彼らの毛まで。奪ってしまった。 また、羊飼いの食卓はいつも豊かな料理が

並べられていたが、 貧しくて飢えた羊の群れを食べさせることには関心もなかった。

また彼らは羊の群れに暴力と強圧を与えていた.

また、イスラエルの羊飼いたちは羊の群れが道に迷っているにもかかわらず、

そのまま放置している。彼らには 羊飼いがあったが、 羊飼いがないも同然だった。


*イエスは自分の欲望を満たす群れを批判しなかった. むしろイエスは羊のような群れを見て憐れみに思った。 憐れみに思っただけではない。群れを愛していた。  そしてイエス様は群れを愛することをあきらめなかった.


(3)私たちもイエス様の愛で愛さなければならない。

ヘブライ人への手紙5:2 大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。


コリントの信徒への手紙一15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。


ヨハネの手紙一 4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。


* 私たちも弱い者であることを忘れてはならない。

そのような私たちを愛したイエス様の愛のおかげで、今の私たちになったということを

忘れてはならない。愛することをあきらめない人生を生きることは、

 キリストへの道を歩むことである。


3.イエス様の試みる目的

日が暮れた。 隣の人も見えないほど暗くなった。


 1) イエス様の試み

ヨハネ6:5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、

    「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、

マタイ14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに

        食べる物を与えなさい。」

  2)弟子たちの反応

マルコ6:35そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。

      「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。

     36人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、

      何か食べる物を買いに行くでしょう。」

マタイ14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。

       「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。

そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」


*夕食の時間に品物を売っている所があっただろうか 

 ->当時、夜になると城門も店もすべて閉まっていた。

ルカ9:13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。

     「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、

     わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」

(1)フィリポ

 ヨハネ6:7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは

     足りないでしょう」と答えた。

(2)アンデレ

ヨハネ6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに

      大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。


3)イエス様が望んだ答えは何だったのだろうか。

  イエス様は弟子たちの口からイエスという名前、神様という名前が出てくることを

  期待したのだろうか?

  神様なら食べさせます」という信仰を期待しただろうか。

  「そうだ。 そういうこともある。

 しかし、私は果たしてそのような状況の中でイエス様が望む答えが出来たのでしょうか?

 私はフィリポよりアンデレよりもましな選択をすることができただろうか.

 「そうではない。 「私はそうはいかないと思う。

 弟子たちの答えが何であれ、イエス様は2万人を超える人々を座らせ、ご飯を食べさせた。

 なぜか?

 彼らを 深く憐れんだからだ。

 彼らを愛していたからだ。

 イエス様が弟子たちに望んだ返事で、人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や 村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」という言葉よりも、「彼らは今飢えていますが今

彼らを食べさせることはできません」と嘆くその心を期待したのではないかと思う。

必要な糧のために毎日働かなければ、飢えるしかない彼らへの切ない思いを期待していたのではな いだろうか。

4. パン五つと魚二匹の真の奇跡

1) パン五つと魚二匹

(1) 魚二匹

   魚2匹は干物または塩漬けの魚、しかし携帯しているなら干物と見るのが自然だ。

   天候や保管環境に大きな制約を受け、生きている魚を家まで運ぶのは容易ではなかった。

その中で架空の漁業を通じて富を築いた人々がいた。干物を持っていって食べ物として

持ち歩くことのできる子どもは、まさに「鉄のスプーン」以上だっただろう。

(2)パン五つ

麦のパン五つは、それを貧困の象徴と誤解したりもする。ところが、小麦と麦は

すべて貴重な 穀物だった。小麦と違って麦の栽培空間は広くなかった。

麦は水分がある畑で栽培される. 一方、小麦は干からびた土地でも育つ。

イエスが教えた祈りに日々必要な糧のために祈るように言った。

パン一切れを毎日食べることが祈りの答であり、奇跡の時代だったのだ。

2)イエス様が配膳した食卓の様子

暗い夜になった。隣の人が誰だとも分からない夜になった.イエスは人々を座らせた.


ヨハネ6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。

     男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。

マルコ6:39-40

39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。

40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。


パン五つと魚二匹の真の奇跡はパン5つと魚2匹で、みんなお腹いっぱい食べたということだろうか。

イエス様の時代の食卓文化は謙譲文化、体面文化に深く結びついている。 私が誰かとパンを一緒に取るかが私を示してくれると思った。 それで私と格の違う存在、足りない存在と一緒にすることを嫌がった。犬のような異邦人と食卓を共にすることはなおさら考えられないことだった。

イエスの荒野での「パンを分けること」にはユダヤ人と異邦人のような人種差別や男女の違い、

貧富貴賤のような社会的身分の区別がなかった。

これは人種、性別、地域、階層、階級の違いがあったイエスを見ようと集まったその人たちが、

一緒に食卓共同体を体験したということだ。これは今でも起らない大事件だ


*50~100人が座って食事をするテーブルは奇跡のテーブルである。

イエス様の食卓は性別の差別、階級の差別、障害の差別を超えて皆が一つになる場所だった。

何も見えない夜、障害を持つ者、病める者、女と子供、主人と奴隷が共に

分け隔てなく一緒に食べ物を分け合うことが「パン五つと魚二匹の真の奇跡」だ。

そしてその奇跡が毎日のように起きる国が神の国である。



 
 
 

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